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花輪理事長の独り言

院長ブログ

その7

『その3日後である。

平成232011)年311日 東日本大震災が起きた。

その時、私は新しい院長室にいた。そしてこう思った「なんだ、3日天下だったか」思わず、引きつった不謹慎な笑いが出た。

移転した地は荒川の河川敷に盛り土した土地であった。病院ごと崩れると思ったのである

停電、電子機器全てストップ、自家発電機作動、しかし、大きな問題は起きなかった。患者さん達を病棟の南側に移し、帰途についたのは午前3時、公園橋から見た真っ暗な街は幻想的であった。

 

病院移転に関わった全ての人たちが好意的であった。同級生はもちろん、栗原稔前市長、久喜邦康現市長はじめ、市、県、国の行政の方々、地権者の方々や地元の方々に多大なご支援を頂いた。特に、山根、内田、平野氏ら高校の友人の力がなかったら移転は出来なかったに違いない。奥村組と田口設計、地元業者の方々は採算を度外視し、私の期待以上の素晴らしい病院を作ってくれた。

ヘリポート併設の病院らしくない急性期病院、木造平屋病棟、患者・職員とも和む環境、そして人が集まる病院である。

株式会社ベルクの故原島功氏からはヘリポート建設に対し多大なご寄付を賜った。秩父臨床医学研究所長の栗原俊雄氏にも、さらに秩父正峰会理事長の吉田廣文氏や山根益男氏には記念樹を頂いた。改めて心より感謝申し上げる次第である。

旧病院は秩父神社のご加護のもと、その隣、宮側町の地で120年以上続いて来たのであるが、移転に際し、薗田稔宮司様よりお許しを頂き、敷地内、ヘリポートに隣接して御社「秩父妙見社」に鎮座頂いた。本当に有難いことである。また、秩父神社の「北辰の梟」にちなみ、ご神木の銀杏の木で作った梟と少女像を待合室の梁に据えた。病院と患者さん達に変わらぬご加護があらんことを祈りたい。

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当院は補助金と言う国民の税金と多くの方々のご好意とご苦労を頂いたことに一点も恥じることはない仕事を続けて来たと自負している。そして、今後も堂々とそれに恥じない貢献をして行きたいと、創立130周年を迎えた今、改めて肝に命じたいと思う』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


院長ブログ

その5

『休校になった東高校、秩父セメント社宅周辺、現在移転した影森の浦山ダム埋め立て地が候補に挙がった。その後、秩父太平洋セメント第Ⅰ工場跡地や第2工場周辺も浮上した。

埼玉県では、平成192007)年10月よりドクターヘリの運用が開始され、

平成212009)年7月より防災ヘリのドクターヘリ的運用も開始し、36524時間ドクターヘリによる患者搬送体制が整えられた。平成212009)年2月の労災事故では、私と岡部先生、当院のスタッフが真っ先に救出に当たったが、その後のヘリ搬送が功を奏した。㉞㉟

私はこのシステムの整備には当初より関わり、県知事や埼玉医大丸木理事長への要請等に腐心した。しかし、平成222010)年7月、埼玉県防災ヘリが山岳遭難者を救助中に墜落、5人が亡くなった。以後、防災ヘリのドクターヘリ的運用は低迷のやむなきに至るのである。㊴

平成192007)年当時、私は病院移転を考え出した時から、病院併設のヘリポートを作ろうと真剣に考えていた。それには広い土地が必要である。もっとも気に入ったのが、現在の影森の土地であった。120年以上続いて来た旧病院は秩父市のど真ん中、秩父神社のすぐ隣で駅にも近い。一方は郊外の河川敷の埋め立て地。土地の価値としてもアクセスも雲泥の差である。それでもヘリポートが欲しかったのである。屋上ヘリポートも考えたが、ヘリポートを併設可能な広く安全な土地と言う意味から、秩父太平洋セメント第1工場跡地と現在の土地に絞られて行った。平成202008)年に入っても並行して土地確保作業を続けた。ところが次から次へと様々な難題に直面した。工場跡地は様々な理由、(土地改良・会社の意向)等により消え、第1候補の影森の土地は広大で2万坪以上あるが、多数の地権者がおり、いずれ大手スーパー企業が進出するとのことで、多くの地権者が手付金を受け取っており、スムースには行かない。また、当時、行政は地元商店を守る意味から大店舗の進出を嫌い、インフラ整備には消極的で、地権者との折り合いも芳しくなかった。2万坪の土地のどこを借り受けるかも問題であった。

その頃、私は自院の移転と同時に、自分の頭の中で、この地に100床を超える規模のリハビリ施設等を誘致し、「医療福祉の里」ができないものかと真剣に夢見ていた。秩父地域にはこの分野も足りないのである。何度か複数の山梨の大規模リハビリ病院を見学に行った。埼玉医大第1外科教授の尾本良三先生を通じ、丸木清浩理事長にも何度かお願いした。前市長の栗原稔氏にも私の構想をお伝えし、ご協力をお願いした。私は秩父地域にとっても、埼玉医科大学の今後にとってもこの構想は大変有益と考えていた。しかし残念ながら、これは実現されなかった。

頭を切り替え、自身の病院移転に集中した。

ちょうどその頃、正にタイムリーと言う他ないが、平成212009)年度に総務省の定住自立圏構想が開始され、秩父市がその中心市に指定されたのである。

この結果、補正予算として、定住自立圏等民間投資促進交付金が予算化され、幸運にも当院の病院新設移転計画に交付金が支給されるかも知れないという状況が生まれたのである。この交付金は「あと一歩」で実現が期待される民間の取り組みを支援し、圏域全体の暮らしに必要な都市機能等を確保するため、国から交付を受けた都道府県が民間投資に係る初期費用の助成を行うというもので、対象事業は医療・福祉の充実、地域公共交通の充実等4分野であった。

交付金は総事業費の4050%と知らされた。千載一遇のチャンスであった。

 

ここで定住自立圏構想について触れておく。『地方から東京など大都市圏大都への人口流出を抑制するため総務省が推進する施策で、人口5万人程度以上で昼間人口が多い(昼夜間人口比率が1以上)都市が「中心市」となり、生活・経済面で関わりの深い「周辺市町村」と協定を締結し、定住自立圏を形成。中心市が策定する定住自立圏共生ビジョンに沿って、地域全体で、医療・福祉・教育など生活機能の強化、交通・ICTインフラの整備や地域内外の住民の交流、人材育成など人口定住に必要な生活機能の確保に取り組む』というものである。
 秩父市が「中心市」に指定されたきっかけは、山根氏の関係で、当時自治大学校校長の椎川忍氏を秩父に招いて、地域活性化等についてのご講演を頂いたのが最初と聞いている。その後何度か秩父に来ていただいて、ご講演をいただいたようである。私も移転に際して、ヘリポートの併設、ドクターヘリの実際等について、椎川氏と東京消防庁の専門官の方にアドバイスを頂いた事もあった。そんな経緯の中で、秩父市は中心市に立候補、めでたく「中心市」に指定されたのである。平成213月からは総務省より、高橋範充氏が秩父市に派遣された。平成21(2009)4月の秩父市市長選挙において、久喜邦康市長が誕生した。

私は、久喜新市長に定住自立圏構想に付いて、私の知る限りの知識を話し、また移転構想についても協力をお願いした』

 

㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」

 

㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」

 

㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


院長ブログ

今回以降は、同じく130周年記念誌「私の20年」の中から、当院の移転についての経緯等を紹介したい。

 

その4

『平成192007)年に入り、私は病院の移転を真剣に考え始めた。この頃から平成232011)年3月・新病院開院後までの約4年間は私の人生の中で、最も忙しく、充実していた時期であった。病院の移転は当院にとっても私にとっても、病院史上最大の出来事であり、絶対に記録を残して置かなければならない。

秩父病院は創立110周年後、14年のエネルギーの蓄積と移転準備期間を経て、秩父の医療が抱える様々な問題に対するジレンマとはちきれそうな期待を胸に秘めて、平成233月に現在の地に移転した。自分でやるしかないと思った。この時期私は還暦を過ぎてはいたが、最も地域医療に対する気概に満ちていた時期であったと思っている。この頃の様々な出来事・私と病院の置かれた状況、自身の心情と行動、病院移転の経緯、そして3月5日に行った開院式、8日の仕事始め、その3日後(平成23311日)に起こった東日本大震災について書き留めて置きたい。

 

平成192007)年8月、私は先輩と友人からの急な誘いで、カナダのアラスカとの国境にあるランガラ島にサーモン釣りに誘われた。これは今までの人生最高の釣りであった。30ポンドを超えるキングサーモンが何匹も釣れた。これらを総て冷凍にして、日本に持ち帰り、大勢の人に差し上げる事が出来たのである。20180829181828.JPG

平成192007)年9月1日 サーモン試食会を兼ねて、第1回病院移転計画会議を市内の割烹料理屋で行った。ありがたいことに、この年の春頃より私の熊谷高校の友人達が「花輪の夢を叶える会」を作ってくれており、すでに移転候補地を模索中であった。主要メンバーは、山根益男・共和電機社長、平野和夫・元当院薬局長、内田武男・株式会社奥村組営業部長、浜田一彦・浜田設計社長であり、相談役的な存在として、江利川毅・当時人事院総裁、依田英男・りそな総合研究所副社長、総て熊谷高校の同窓生であった。加えて当院の前事務長・清川芳明氏が最前線の交渉人として働いてくれた。

移転を思い立ったことには幾つかの理由があった。当然、旧病院の老朽化と駐車場が狭くなったこともその一つであった。しかし、正直言って私は還暦であり、常にいつ医者をやめようかと考えていたことも事実である。潮時とも思えた。私は救急医療の大変さ、病院を続けることの困難さは嫌と言うほど知っている。悩んだ末、病院を続ける決心をした。120年以上続いてきた病院を私が終息することは意地でも出来ないという思いもあった。私のバカな性格である。どうせやるなら、少しでも地域に役に立つ病院にしたいと思った。救急医療の現状を見れば、相変わらず、脳卒中や心筋梗塞等は当地域で対処できない。秩父に住んでいたから不幸な結果になることは、医療者として痛恨の極みである。ならばヘリポートを備えよう、当地で対処できない患者さんは少しでも早く高次医療機関に運ばなければならない。そして少しでも医療の進歩に遅れないよう、優秀なスタッフが集まって来る病院にしようと考えた。とは言え、彼らの励ましがなかったら、敢えて困難な道に夢を追いかけることはしなかったと思う。改めて彼らに感謝したい。』

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 

 

 


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その3

『平成23926日に定住自立圏構想の一環として「ちちぶ医療協議会」が発足した。これは「地域医療を地域の基幹インフラと据え、医療に対する需給ギャップの解消を目指した事業を実施し、秩父定住自立圏の制度を活用して、地域医療の維持・向上を図ることを目的とする」と言うものである。当時私は、定住自立圏構想には少なからず関わってきており『これは正に官民一体となり関係者が総力を挙げて地域医療の難題に取り組む体制が作られた』と大喜びしている。加えて、『このちちぶ医療協議会が単なる机上の空論や既成概念に囚われた形式だけのシステム、補助金消費のための旗振り事業に終わらない』ことを期待すると書いている。『何をか言わんや』が今の心境である。

 

夜間二次救急輪番体制が7病院から3病院になってしまったことを懸念し、私は「自治体病院の勤務医の先生方にも、民間病院の救急医療等をご援助頂きたい」と訴えて、今こそ管民の別なく『地域全体で地域医療を守る』ことを提唱している。今にして思えば、実現すべくもないが。

ただ現在も続いている、医師会の先生方の救急へのご援助は誠にありがたく、感謝に堪えない。

 

救急医療に関連して、埼玉県赤十字血液センターにお願いし、当地(当院)に血液備蓄ができる様になったことは当地域の医療にとって非常に有益で画期的なことと思っている。血液センターには結構強引にかけあった。地域の特性を十分理解してもらった結果である。念願が叶い、これで産後の大出血等に対し、より迅速な緊急輸血が可能となった。

 

私は医師会長を一期2年でやめたが、その理由は決して、疲れたとか、オーバーワークとか、医師会に嫌気がさしたとかではない。この時期は病院の移転と重なっており極めて多忙ではあったが、最も気力が充実していた時期であった。様々な思いを凝縮した結果である。ただ、僅か2年の医師会長の仕事であったが、看護学校の校長職も含めて私にできることは総てやったと思っている。この内、何が有効で、何が意味を為さなかったか、未だに自分にも正確な判断できていないが、いくつかの良い仕事もやった。ともかくその時点ではやり切った感はあった。今にして思えば中途半端ではあったと思うものも多くあるが、思う様には行かないものである』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その2

 『平成22年と23年発行の秩父郡市医師会誌の巻頭言、医師会長が書く「はじめに」を振り返って見る。㊱㊵

 私は医師会の役割として「医療人の集団として、地域社会における医療分野で組織的に貢献すること」加えて「地域で医師(医療)を育て、医師を確保し、地域全体で地域医療を守ること」を提言している。救急医療に対しての市民の理解と啓蒙、行政との綿密な連携、日本医師会、県医師会への積極的提言、より広域的視野から見た秩父地域医療体制の必要性、医師会員による二次救急病院の援助、定住自立圏構想に基づく、救急医療体制への補助制度等について書いている。

次の年は、当然一番に東日本大震災のこと、医師会で義援金を募り、総額500万円を被災3県の医師会に送ったこと、友人の秩父がルーツの大手スーパー「ベルク」の社長・原島功氏に頼んで、岩手県立大槌病院に自社のトラックで直接食材を送ってもらったことなどを書いている。大槌病院の岩田千尋院長は秩父出身で、医師会の副会長であられた、故岩田充先生の弟君、岩田産婦人科医院の院長、城谷誉子先生の叔父君である。平成235月4日、私はイチローズモルツを1本持って大槌町を訪ね、岩田千尋先生にお会いし、被災地の惨状を目の当たりにした。先生がすでに仮診療所を開設され頑張っておられた姿が目に浮かぶ。20180821143411.JPG

私は以前より「秩父地域保健医療協議会」において「秩父地域医療についての提言」と題し、勤務医不足に対する対策、中核病院たる秩父市立病院の在り方、救急医療の危機等の問題を指摘し、その解決法を提言してきたとも書いている。今回、改めて平成20年度の提言書を読み返してみて、唖然とした、私の頭と地域医療の現状は当時と変わらず、一歩も進歩していないと再確認できた。㉝ 振り返れば、平成16年(2004)年71日発行 秩父外科医会30周年記念誌に「秩父外科医会30周年によせて」の中に同じことを書いていた。それは、昭和581983)年325日発行 医師会誌第2号に寄稿した「夢遊病者」と題した文章にも全く同じ考えを書いていて呆れてしまったと書いているのである。このことは私が懸念する秩父地域医療の問題点と私の考えが、この35年間全く変わらない、進歩がないことを示している。いやむしろ後退していると言うべきであろう。

一民間病院の院長が行政や医師会に地域医療の危機を訴え、行政等にその解決

策を何度提言しても、「暖簾に腕押し」なのである。一次は無力感と脱力感し

かなかったが、まだどうにかしたいという思いが少しは残っている。』①㉒

51、52

 

㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」

㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」

㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)

①    昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」

㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」

51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号

秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!


院長ブログ

当院の130周年記念誌、『私の20年』の中から、私が医師会長を務めていたころの事柄を何回かに分けて紹介したい。

その1

『医師会の仕事については、昭和59年(1984年)4月、36歳の時から理事・副会長・会長として64歳まで28年間務めさせて頂いた。平成11年8月1日から平成14年4月30日まで最初の介護認定審査会会長を、平成184月より平成243月まで6年間は看護学校長を、平成18年よりは埼玉県医師会理事を、平成224月よりは医師会長を拝命、それぞれ2年間務めた。また、副会長次代には平成1641日から平成22331日まで秩父市立病院の非常勤副院長も務めさせて頂いた。

 

医師会の多くの仕事の中で印象に残っていることを幾つか書き残す。

看護学校の仕事もその一つだが、細かいことは看護専門学校設立10周年および20周年記念誌に書いているので、ここでは私が校長としてやった主な仕事について書き留めておく。看護専門学校は開校当初より、実習にはスクールバスをチャーターし遠く関越自動車道で実習病院まで行かなくてはならない状況であった。校長としての私の一番の仕事は、当院を含めて地域内で実習が出来る体制にしたことだと思っている。地域唯一の看護師養成施設であり、地域医療の要とも言える、看護専門学校の存続にも関わる問題であった。「職員心得」を作ったのも有用なことであったと思っている。㉜

 

秩父市立病院非常勤副院長の仕事は、ほとんど空回りに終わった。残念ながら私の存在は、市立病院の充実には役に立たなかったと、情けなく思っている。

 

埼玉県医師会理事や郡市医師会長としての仕事は僅か2年間であったが、精一杯やった。毎月1回、浦和の県医師会で行われる理事会と医師会長会議では出来るだけ多くの発言をした。時には埼玉県庁の医療整備課に立ち寄り、多くの要望や意見、提言を行った。例えば地域医療再生基金の使途、公的病院と民間病院の不平等、医師不足・医師の地域偏在に対する施策、等々である。「自治医科大学の卒業生の9年間の義務年限の派遣先は何故公立病院だけなのか?」と正した。答えは「前例がない」と言うものであった。今に繋がる有効であったと思われるものもあったが、消化不良のものもあり、このことについて言い出せば切りがないので、ここでは多は語らない。振り返っても欲求不満が募るばかり、六十どころか古希を過ぎても耳順は叶わず、腹の立つことばかりである。』㊳                    

㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」

 

㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」

 

平成30年8月17日、ちちぶ医療協議会が開催された。今回は埼玉県より担当課の職員の方が、医師不足に対する埼玉県の現状認識とその対策についてのご説明に来られていたので、「現実に医師不足に対する支援は公的病院と私的病院の間に歴然とした格差があるが、その根拠はいかがな考えによるものか」と質問した。例えば、埼玉県では、医科大学入試・教育の地域医療枠等においての補助金(奨学金)返済の免除条件は公的病院の勤務に限るとしている。また、自治医科大学卒業生の派遣先も同様に公的病院に限るとの事である。すでに8年前の医師会長時代に県の医療整備課に対して同じ質問をしていたのであるが。「前例がない」で却下とは、理不尽と言わざるを得ない。

 

今回はここまででよかろう。チェストー!!!

 


八丈島クルージング

今年の夏休みは八丈島に行った。沖縄から帰って来てより、この4年間はほとんど、西伊豆松崎の往復のみで、長いクルージングはやっていなかった。そんな訳で、昨年よりそろそろ遠くへ、また、小笠原にでも行きたいと思っていた。しかし、喜望峰Ⅲでは沖縄の行き帰りでもナイトクルージングと荒れた海の経験はなく、手始めに八丈島としたのである。八丈とした理由は他にもある。大きな回遊魚(カンパチ、ヒラマサ、マグロ)釣りたかったこと、八丈病院は当院と同様に日本医科大学の初期研修医の地域医療研修施設となっており、後輩たちが研修していること、そして何より、八丈病院の放射線技師長が当院の山中事務長と技師学校の同級生であり、色々と便宜を図って頂いたことである。

台風12号が行き過ぎたのを待って7月28日清水を出航、松崎で買い出し、仲間をのせ、午後出発、最初は風向きも良く、ほとんど帆走で7から9ノットで快走。しかし、石廊崎をかわす頃は、大きなうねりが残っており、風も登りいっぱい。さすがに久しぶりに味わう外洋の波は大きい。時々、スプレーをあびる。

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久々のナイトクルーズ、夜に備えて、ジブ、メインとも3ポイントリーフとしワッチ組んだ。  20180818190241.JPG   20180818190408.jpg

神子元島の灯台の灯を左後方に見る頃より、一見早そうに感じるが、GPSチャートではなかなか進まない。ワッチ交代の20時頃は、4ノット、実際、三宅島を横に見た後、御蔵島まで遅々として進まず、黒潮の真っただ中、逆潮に捕まったのである。急ぐ旅ではないので我慢して進む。船首のオーナーズルームのピッチングは半端ではない。ドーンと言う音とともに船体が波に打ち付けられる。船内でトイレに行くにも3点確保で動く。ワッチ交代し、夜明けにトローリング。いきなり良い型のカツオが釣れる。

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夜が明けて、黒潮を抜けたころより、快走、波も収まる。約20時間弱の航海で神湊港に到着。昼飯はカツオの刺身ともろもろ。

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三十数年前、33フィートの喜望峰1世で小笠原に行った。この時、八丈島には全員が船酔いでダウン、避難のような形で今回とは逆側の港、八重根港に逃げ込んだのであるが、それと比べれば、全く楽であった。やはり46フィートは違う、この船ならどこにでも行けるだろう。

翌日は釣り船をチャーターしカンパチ釣り、20キロの大物が釣れる。大きさ以外は全く感動の無い、釣りと言うより漁であった。魚は松崎に送り、松崎マリーナの濱田氏にさばいてもらい、刺身、煮物などなど、調理が大変だったと感謝、味は意外とさっぱり、癖がない。

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その次の日は八丈富士登山と夜は八丈病院の技師長とスタッフ、日本医科大学の研修医を招待して船でパーティー。飲みすぎて写真を撮ることを忘れる。

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八丈島滞在中に2回『見晴らしの湯』に行く。温泉にはうるさい私だが、今までの中で景色の良さから言って、5本の指に入る素晴らしい温泉であった。夕方は大海原の上の空間に、金星、木星、さらに地球に最接近した赤い火星を一度に見渡せることが出来た。夜の星の多さ、

天の川も久しぶりに見た。八丈富士の景観も空気の涼しさも爽快であった。次の台風準備のため、三宅島は割愛、帰航は黒潮に乗り、ほとんどセーリングで行きと比べ5時間くらい早く松崎に付いた。清水には、地球号と海上自衛隊の空母(護衛艦と呼んでいるが、どう見ても空母)がいた。今回のクルージングの経過は『花仁塾LINE』で実況中継した。

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院長ブログ

130周年記念Tシャツ

現在、11月に予定している、創立130周年記念医療連携会の準備と記念誌の作成に追われている。記念誌の職員全員の原稿は総て集まり、日頃お世話になっている医療機関の先生方やOBの先生方等よりのご祝辞、ご寄稿も概ね頂き、形が整いつつある。本当に有難いことである。心から御礼申し上げる次第である。今は写真や記念誌のデザイン、編纂作業に入った。

前回、当地域の救急医療(特に夜間二次救急体制)について、現時点での私の考えを記念誌より転載し紹介したが、今後、このブログに記念誌の内容を随時紹介して行きたいと思う。

 

 今年の夏は正に猛暑である。先日(平成30年7月23日)熊谷が暑さ日本一の記録を更新した。なんと41.1度であった。

 7月18日、やはり猛暑の中、130周年の記念事業に備え、ヘリポートに職員が集合し、ドローンによる撮影会を行った。130を人文字で描き、上空より撮影した。130周年の記念に職員がデザインしたTシャツを作成、全員がこれを着込んで撮影した。記念誌と連携会でこの写真を使おうと思っている。

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花の子ハウスのスイカ割り

今日(7月24日)は比較的暑さは和らぐ。

花の子ハウスではスイカ割が行われた。スイカは花の子農園自家製の大きなスイカである。子供達はおなか一杯。残りはやはり自家製のトウモロコシと一緒に職員食堂で振舞われた。

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救急医療

昨年の12月以来、私のブログはお休みしていました。一番の理由は、秩父病院創立130周年記念誌を創ろうと思い立ち、その準備で手が回らなかったからです。前回は創立110周年記念誌を発刊しましたが、この20年で医療も当院も大きく変わりました。

平成30年11月19日(月曜日)に130周年記念医療連携会を行おうと考えています。

 

昨年、(2017)年4月第117回日本外科学会定期学術集会において、 特別企画(5)で、「研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割」をお話しさせて頂いた後、このブログでも紹介しましたが、インターネットサイトm3.comの取材を受け、

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

がサイトにのりました。タイトルがかなり悲観的であったため、多くの方々より「先生どうしたの?」とご心配やら励ましやらのお言葉を頂きました。

また、2017年秩父市報9月号に秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」を書きました。内容は「当院は夜間二次救急体制を段階的に縮小して行く、将来的に夜間救急体制を公的病院たる秩父市立病院に集約して行く」と言う提案です。

 また、4月12日に、正式に文章で秩父広域市町村圏組合と秩父郡市医師会に当院の方針を伝えました。

 

 以来、市・広域・医師会等でご心配頂いていることは承知しています。しかし、当院の申し出に対し、市は「再考を」との事のみで、私の提案に対しての具体的な意見や回答はなく、医師会やちちぶ医療協議会での議論も、何時もそうですが、私の指摘する問題はすり変えられ、違った方向に進んで行っているように思われます。私は、ただ疲れたから、大変だから救急をやめたいなどと言っているのではありません。もちろん無力感も脱力感もありません。ごく自然な前向きな提案と思っています。

 そこで、夜間二次救急を縮小する本意を知ってもらいたく、しつこい様ですが、何度目かの発信をしたいと思います。

当院130周年記念誌・当院の基本方針の中から抜粋してお話しします。現時点の私の考えです。

 

前文略、、、、、、。当院のもう一方の柱は救急医療である。「救急は医療の原点」は当院の理念であり、永遠に変わることはない。しかしながら、当地域の救急医療の実際を考えると、医療者の理念以前の問題として踏み外してならないものがある。それは我々には「患者に最適な医療を提供する義務がある」と言うことである。これは逆に言えば、「患者の権利」である。医療の進歩、高度化に伴い、地域内で行え得る医療行為は相対的に減少して来ている。先に述べた当院で行う手術の範囲の縮小と同じ意味を持つ。現状では全てを完結は不可能であり、最も大切なことは、対処不可能な症例の場合、「いかに早く患者さんを適切な治療のできる医療機関に送るか」である。病院移転に際し、ヘリポートを併設した所以はここにある。いや、そのために移転したと言ってよい。

患者さんの利益を中心に据えた時、秩父地域の救急システム、特に夜間救急に限界が来ている事は明らかである。

くどい様だが、医療の急激な進歩、人や医師の都市集中は地域内での完結を不可能にした。相対的に地域医療は弱体化しているのである。従って、より広い視野を持ち、より広域の医療体制しかないのである。現実を直視すべきである。この20年間で、私の考え方が最も変わったのはこの事である。『秩父地域完結医療はあり得ない』すでに現状の医療圏と言う狭いレベルでは地域医療は為すべきではない。平成30年1月より開始された、埼玉県急性期脳梗塞治療ネットワーク構想は大きな進歩と考える。

当院の様に夜間救急を一人の医師が全てを担うことなど、あまりに荷の重いことであり、結果として患者の権利を阻害することも有り得る。なにより医療者としての良心が許さないのである。

ではどうするか? 行政が、市民の理解の基、公費(税金)を有効に使い、より広域の医療・連携システムを作り上げる事を要請したい。具体的には、当地域で対処不可能な重症かつ緊急疾患に対する迅速で円滑な転送システムの構築である。ドクターヘリのさらなる活用、夜間のヘリ搬送、地域独自のドクターカーの整備と運営、当地域専用の後方病床の確保もその一つであろう。既成概念から飛び出し、知恵を使うべき時期である。当地域においては、公的病院たる秩父市立病院が、この使命を担うべきと考える。

 

問題はあくまで「夜間の当地域で対処不能な重症患者」のへの対応を問題にしているのであります。休日診療所や在宅当番の改善を要求しているのではありません。

医師会には、当院の夜間救急体制の段階的縮小の意味をご理解頂き、市や市立病院に対しての働きかけを期待したいと思います。


医療連携会

今年も11月20日(月)に秩父病院医療連携会を開催しました。

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毎年秩父医師会を中心に歯科医師会・薬剤師会の先生およびスタッフの方々。消防、保健所、保健センター、行政、秩父看護専門学校、臨床検査センター等にご案内を差し上げており、150名近い方々にご出席を頂いておりますが、今回はそれを上回るご参加を頂きました。

今回は初めて秩父市議会の7名の議員さん方にご出席を賜りました。またこれも初めてのことですが、埼玉医科大学国際医療センターより総合診療・地域医療科の古屋大典教授とスタッフの方々、さらに埼玉石心会病院よりの副院長・脳神経外科部長の石原正一郎先生と医療連携室の方々にもご出席頂きました。

秩父市議会の議員さん達にご案内を差し上げたきっかけは、私が寄稿した9月の「ちちぶ市報」を読まれた議員さんのお一人が、市議会でこれに関連した質問をなさり、その内容を私にお知らせ頂いたことでありました。成程、市民の代表者である市会議員の皆様にもこの連携会に参加していただく事は大きな意味があると考えました。

だんだんに欲が出て、今回は広く圏外の高次医療機関へもご案内を差し上げる事としました。しかし、期間が迫っていて、上記の2医療機関のみとなってしまいました。

私は埼玉医科大学主催の医療連携会(現在まで36回)には初回より欠かさず出席しており、長年良好な連携関係が続いております。「逆も真なり」と考えました。医療とアクセスの進化と発展、患者のニーズの変化等に伴い、より広域的連携は不可欠となってきています。

このような考えから当院をより深く、より広い範囲の方々に知って頂く事は、当院のみならず、秩父地域医療の為にも重要なことであるとの認識に至りました。

来年からは、さらに広い連携を目指して行きたいと考えております。

 2017年医療連携会パンフレット

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プロフィール
秩父病院理事長 花輪 峰夫

秩父病院理事長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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