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院長ブログ

秩父病院物語(当院の昭和・平成を振り返って)

元号が令和となった。この機会に当院の歴史を改めて振り返って見たいと思う。詳細は創立110周年記念誌に詳しく記録してあるので、ここでは私の父、花輪吉夫が昭和初期に秩父病院の3代目院長に就任した以後の風景を徒然に、写真と共に振り返って見る。

 

昭和12年10月、当時、新潟医科大学の整形外科で修行中であった父は、突然、教室の主任教授・学長である本島先生に呼び出されたという。「お呼びでございますか」と父「お前を秩父に遣ることにした。秩父病院の院長が療養中の間、秩父病院の運営をやれ」「とんでもない私は行きたくありませし、到底できません」「何を云うか、お前ならやれると思うし、これは命令である」

このような事情で父は全く縁もゆかりもないこの秩父に赴任したのである。

 

その1

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明治20年(1887年)に建てられた初代病院。その時の開院祝賀会で県知事の代理が読んだ祝辞。本物が院内に展示されている。明治35年の秩父郡大宮町寿娯録。

 

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大正12年に建てられた2代目病院。昭和12年のこの病院より秩父病院物語を始めたい。

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昭和12年父が秩父病院の3代目院長に就任した頃の風景である。最初の写真の一番左側と上の写真の中央は私の父で、左側は母と祖母である。父は恐らく30代前半か? 背景の大きな百日紅は移植し、今でも私の自宅で花を咲かせている。外科、整形外科、レントゲン科を標榜、電話番号は22番。

病院敷地は周囲の道より2から3mは高く、ちょっとした丘の上にあり、周囲の総てが石垣で囲まれていた。西側・県道側は病院への進入路に高さ5m位の四角い大きな大理石の二本の門柱があった。玄関には4×10m位の緩やかな坂を上る。坂は丸く刈り込まれた植栽が植わった石垣に挟まれていた。病院は木造づくりであったが、正面はタイル張りの二階建て、おしゃれな飾り屋根があった。いかにも大正モダン建築といった風情である。もっとも、私はこの屋根は知らない。私が生まれる前に、この屋根は火事で焼失していて、もっとシンプルになっていたのである。しかし、これ以外は私の記憶の中の病院と変わっていなかった。玄関の両脇には大きな丸石が鎮座して、その横にバランス良く刈り込まれた植栽。これも今では味わえないであろう「外来入り口」と言った雰囲気を作っていた。玄関入り口の狭さは茶室の様でもある。私が育った自宅は、正面に向かって左側にあり、木造平屋の日本家屋で、洋風の離れがあった。病院との間には、庭があり、真ん中に池、向こうに小さな社、手前に大きな木蓮と梅の古木が植わっていた。木蓮は現病院の敷地に移設し数年は元気であったが、一昨年に枯れてしまった。梅の古木は現病院のヘリポートの脇で、昔とまったく変わらず、毎春見事な花を咲かせている。自宅の母屋より病院へは、細い外廊下でつながっていた。

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東の裏側、秩父神社側は、もろに木造の板張りで、これはこれで雰囲気があった。ここは「柞通り」に接し、向こうは秩父神社の森である。裏から母屋に入るにはやはり石段があった。

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                                      待合室

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                                      薬局

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                                      院長室

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                                      病棟

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                                      急な階段

玄関のある中央は2回建で、玄関の奥は待合室、診察室、薬局と会計室、ここは小さな窓があり、待合室を繋がり、患者さんとやりとりできる。二階へは極端に急な階段を上らなければならない。二階には、応接室と看護婦さんの寮があった。

薬局の薬は今より品ぞろえが豊富である。病室はいつも家族が付き添っていた。病室内に石油?ストーブは今では考えられない。処置室はいかにも外科病院という感じで、手術室の無影灯は実に趣がある。

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外科医師スタッフ看護婦さん達の充実ぶりは、今と変わらない。父、片田良行先生(片田医院・片田隆行先生の父上)、武島龍雄先生(元武島医院院長)、小泉忠彦先生(私の叔父)、豪華な顔ぶれである。


日本医科大学スキー部創立50周年記念誌

記念誌作成に向けて、OB・現役、同門の全ての人たちにこの企画への参加をお願いしたいと思います。

今回の企画の趣旨を、総ての日本医科大学スキー部同門の皆様にご理解賜りたいと思い、個人的ブログに載せました。

ご寄稿・写真・資料の提供、ご寄付をお願いしたいと思います。

これはあくまで一スキー部OBとしての個人的文章・お願いでありますが、この企画を思い立った一人として、皆さんにお願いするのに一々口頭や手紙では大変です。「私のブログを見てください」との戦略です。ご理解頂きたいと思います。

 

平成31年1月私は久しぶりにスキー部の0B戦に参加した。多くの若い部員がいて実に盛況であった。

卒業後しばらくは、さすがに本業・外科医の修行に忙しくスキーをやる機会はなかった。それでも、30歳を過ぎる頃には、またスキーを始め、今度は深雪にハマり、妙高の関山に小さな山小屋を購入し、家族や仲間たちとスキーを楽しんでいた。

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スキー部のOB戦が何時頃から始まったか、私にははっきりとした記憶がないが、十数年前頃?から、石打で行われるOB戦に参加するようになった。以前は同世代や私より先輩の参加もあったが、残念ながら近年参加した2回のOB戦は私が一番年寄り、つまり最高学年で世代の違う少数の若い0Bだけとなってしまった。

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この写真は10年前、まだ鴇田先輩が元気であった頃のOB戦の前夜祭の時のものである。従って、なんとなく参加を見合わせるようになっていたが、今年は何人かのOBや多くの現役と一緒に大いに酒を飲み、大変盛り上がったのである。この時の様子は今年2月に、このブログに載せたのでご覧頂きたい。この時、現在の0B会長である中西一浩先生(S61卒・麻酔科)や斎藤糧三先生(H10卒)、そして同世代の後輩である中山康子先生(旧姓岩瀬・S49卒)等と楽しい時を過ごす中で、スキー部創設期の話、大会や辛かった合宿の話に花が咲き、同時に我がスキー部がすでに50年以上が過ぎたことに気づいたのである。そして実際にスキー部を創設した故・鴇田典夫先生達(S44卒)のご苦労と鴇田先生のスキー部に対する愛着にも改めて気付かされた。

今、記憶を記録として残さないとスキー部の歴史が消えてしまうと私は思った。あの懐かしいレースや合宿、スキーに明け暮れた生活、それぞれのスキーにかける思いが、総て過去のものとして忘れ去られてしまう。医学部のスキー部として、現役の学生達・若い医師達に伝わるべきものも消失してしまうと思った。自然と記念誌作成へと話は進んだ。当然の流れであったと思っている。

日本医科大学のスキー部は私が入学した予科1年生の時、つまり昭和41年に創部された。それ以前の何年間かは同好会の様なものであったようで、山岳部から独立したと聞いている。

現状報告

この企画はOB会長の中西先生を中心にOB会が主体となり、スキー部内に事務局を作り、実行して行くと理解しています。

現状はその準備段階で、原稿、資料の期限は今年(令和元年)12月末、発刊は来年(令和2年)春を目指したいと思っています。

私はすでに先輩後輩を含め、20名を超す、知っている限りの同門の先生方に電話でご協力をお願いしました。皆良い感触でした。

特に先輩方には口頭でこの企画の賛否を相談しましたが、全員が歓迎の意向でした。

大関正知先生(S44卒)は初代あるいは2代目のスキー部主将ですが、ご相談したところ、すぐに原稿を郵送して頂きました。題名は「日本医科大学スキー部創部顛末記」で当時の様子、ご苦労が詳細に綴られています。私はこの文章を貰ってしまって、後に引けないと痛感しました。

また、青森の川島信二先輩(S46卒)と同級(S47卒)の鈴木次夫先生は東日本・関東大会と合宿の場所、時期等を老脳に鞭打って、懸命に思い出し、連絡してくれました。もうほとんど原稿が完成しているのではないでしょうか?お疲れ様でした。

 

平成31年4月20日に東京麻布十番の齋藤先生のお店で最初の打ち合わせを行いました。

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参加者は小川研一先輩(S46卒)、鈴木次夫同級生(S47卒)、花輪(S47卒)、中西一浩OB会長(S61卒)、中山康子(49卒)、斎藤糧三(H10卒)、井上正章(H31卒)と現役主将、来期主将、来期主務の3人、計10人です。

いずれ近いうちに事務局より、OB 会と会長名で正式な連絡がされると思っています。その節は宜しくお願いします。是非同期世代にも声をかけて下さい。

 

以下の文は皆さんが少しでもその気になる様に、現時点での私の原稿の抜粋を載せます。

 

『まず、古い写真を捜してみた。スキー部の時の写真はなかなか見つからない。今年の5月の10連休の前半は仕事と写真探しで終わった。ついでに昭和初期の病院の写真が出てきたが、自分が滑っている写真、レースの写真は無いものである。病院の写真はホームページの院長室で秩父病院物語として連載することとした。本題のスキーの方は中学の時の写真と、かろうじて、スキー部の夏合宿の写真が出て来た。

私は5歳位からスキーを始めた。その頃のホームゲレンデは、あの川端康成の小説「雪国」の舞台となった越後湯沢である。

中略

そして日本医科大学入学、スキー部に入った。その時の様子を振り返って見る。入学後すぐに、市川の教室に1年先輩の黒川民男さん(スキー部と水泳部を兼ね、ヨット同好会・部を立ち上げた方)がクラブの勧誘に来た。「君、水泳部に入らない?」私は高校では水泳部の奴より平泳ぎでは早かったので、いつか神宮の屋外プールで泳いでみたいと思っていたので、すぐに快諾。「冬はスキーはどう、やったことある」と先輩。「ええ、まあと一応格好をつける」正直、「医学部のスキー部なんて」という自惚れはがあったが、当然喜んで入部した。

中略

私は、高校時代は山岳部に所属し、特別に冬はスキーを許されていた。高校2年の時、NHKのドギュメント番組、現代の映像という番組に我がクラブが取材を受けた。そのタイトルは「高校山岳部・しごき」であった。毎月トレーニング山行があり、ザック(キスリング)にブロックを積み込み30キロの重さを背負って山に登った。中央線から入り、東海道線に出るという、南アルプス全山縦走もやった。従って、今でもスキーが一番強かったのは高校時代であったと思っている。さて、スキー部での成績は自分の自信とは程遠いものであった。入賞はできたが、優勝は出来なかった。

中略

振り返って、スキー部での成績については、悔いが残るが、高校時代と比べ、たいしたトレーニングもせず、半分以上は他の趣味にエネルギーを費やしていたので、当然の結果であったと思う。負け惜しみであるが、せめて厳しいコーチが欲しかったと今更ながら思うのである。

中略

しかし、存分に学生時代を謳歌したと思っている。

関東、東日本のレースはもちろんであるが、春夏の合宿、仲間の骨折、大会に向かう途中の事故、等思い出せば切りがない。

中略

ともかく春・夏スキーができるところは、ほとんど行ったと思う。時期や順序は不明な点が多いが、そのうち発刊までには詳細が分かるであろう。でも私を含め、多少の認知が入っていてダメかも知れない。急がねばならないと思う(笑い)

中略

月山、乗鞍、鳥海山、立山(雷鳥沢)立山(剣沢)、八甲田、八方尾根には行ったと思う。私が主将の時の夏合宿は立山(剣沢)であった。後ろの山は剣岳である。この写真はたぶん夏合宿の下見に江尻一成君(S50卒)と立山を訪れた時のものである。

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この年の合宿所は劔沢小屋であった。室堂から雷鳥沢を上り詰めるのであるが、予想外に時間がかかった。遭難寸前?であった。部員は女子(中山先生)を含め、山登りは皆素人、小屋についたときはすでに真っ暗であった。10時間位はかかったか?板と竹のポールを背負って登った。ただ山形出身の仁科君(S51卒)は頼もしかった。そしてその夜、この小屋のかろうじて輪郭が映るテレビでアポロ11号の月面着陸を見たのである。従って1969年(昭和44年)7月20日、アメリカ東部夏時間の午後4時17分に剣沢小屋にいたことは間違い無いのである。

 

春合宿では鳥海山の「肩の小屋」に1週間閉じこもった。山女(やまじょ)のお姉さん?と小屋のご主人のおじいさん(多分おじさん)がいて、二人ともとても親切であった。午前1回、午後1回、頂上まで登り、一気に滑り降りた。

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毎日同じ顔を見、同じ飯を食った。最終日にはお姉さんが女の子となり、とても可愛く見えた。毎夜、彼女に教わった歌を歌った。

「ここのお山は日本一、出羽富士の名〜ある鳥海よー。肩の小屋より白糸見ればー、東に月山、蔵王山。峰の白雪、白雪や〜、夏でも消えやせぬ、夏でも消え~ぬー」まだ覚えていた。確か2番、3番もあったが、もう思い出せない。

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中略

私のスキー歴は六十数年、今も年に数回は滑っていて、私の生活には欠かせないものになっている。私からスキーを取ったら何が残るのだろうか?今では健康維持が最大の目的ではあり、シーズン初めに必ずノーストップで緩やかな長いコースを滑り、ブーツを脱がず、足の痛さを懸命に堪える。これができると又今年も滑ることができると自身で確信できる。私の生き方のモットーは「いつも冒険心を持つこと」しかし、本業の医療では不謹慎なので「チャレンジ」としている。いつまで続くことやら?

オリビアを聞きながら、ただただ長く大きく滑る。なんとも気持ちの良いものである。

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いつだったか、現役部員に尋ねたことがある。

シーハイル」て知っている?と。「いいえ」

我々はいつも最後に「日医―ファイト・ファイト、シーハイルシーハイルシーハイル」で締めたんだよと私は答えた。スキー万歳という意味である。Chiheil  ドイツ語らしい。

中略

フランスのアルペンレーサー・ジャンクロードキリー、オーストリアのトニーザイラー、いずれも回転、大回転、滑降のオリンピック3冠王であるが、もうそんなジャンルや種目別もなく、オールラウンドプレーヤーは存在しないようである。まるで最近の医療と同様、専門特化している。スキーの歴史もなかなか面白い。

最後に、現役部員の皆さんに一言。

スキーは歩ける限り一生できるスポーツです。全身運動なのが良い。健康維持には最適です。何より爽快でスリリング。そしてスキーには歴史と文化があります。現役の皆さんも自身の人生にスキーという彩りを加え、スキー文化を伝えて下さい。

そうそう、私にタイムレースで負けた選手は秩父病院に研修に来る約束、忘れないで下さいね。

今までに日本医大の研修医は百人近く当院に来ている。OB戦で私が勝った部員は2、30人はいるはずだが、スキー部OBで当院に来た研修医は飽本、井上の両君だけです。彼らは全然私より早かった(笑い)


秩父病院ギャラリー

今後、このホームページの院長室、「秩父病院の歴史」カテゴリに、当院の歴史を懐かしい写真と伴に紹介しようと思います。

令和になり、当院廊下ギャラリーも一新しました。長い間、素晴らしい写真を提供して下さった「秩父愛鳥会」の皆様には心より感謝申し上げます。

病院の周囲は今、ポピーや様々な花が咲き乱れています。そろそろツツジやニッコウキスゲも咲きそうです。

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今回より元号が変わり令和となった機会に、時代を逆走し、幸いに残っていた昭和初期の古いアルバム(主に故井上久先生が撮影して下さった)から当院の昭和の風景を取り出しました。古き良き時代?を感じます。今後、定期的に平成23年の新病院移転までの当院の風景を展示して行きたいと思います。

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また、ギャラリーには職員が撮った写真も展示しました。

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                                       院長室

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平成31年春・雑感

先日、三十数年ぶりに研修管理委員会出席のため、日本医科大学武蔵小杉病院を訪ねた。私は47年前、当時日本医科大学第二病院と言っていた、この病院の外科に入局した。そして故田中映吾先生の元、医師・外科医としての全てを教わった。手術は臓器の別なく外科と名のつくものは、心臓以外はなんでもやらせてもらった。消化器に限らず、乳腺も甲状腺も肺も小児もやった。形成も脳外も整形も麻酔もやった。そんな時代と環境であった。

新丸子と武蔵小杉の駅や街は当時の面影は全くなかった。病院そのものも、私の知らない次の建物に変わっていたが、隣のグラウンドでは新病院新築移転とのことで、ちょうど地鎮祭が行われていた。診療科は内科も外科も、臓器別・専門科に細かく分かれていた。時代の流れを痛感した。しかし、私の主戦場であった3階建ての古い病棟のみ残っていて、医局と会議室はここの旧病室であった。医局の机の上に手術簿が無造作に数冊置いてあり、あとは棚に並べてあった。懐かしいOP簿である。当院も20年前まで、これと全く同じものを使っていた。パラパラと見開いて見た。しっかりと手術記録・所見や手技の絵が描かれていた。何かとても嬉しい気持ちになった。

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                                「懐かしい第二病院の病棟  」

会議の前に消化器外科部長・谷合先生を表敬訪問した。50代の若い教授であった。もちろん彼を含め、この病院には私と一緒に働いていた人たちはもういない。それでも同窓であり、また同じ外科医でもあるため、お互いの知人は多く、楽しい有意義な話ができた。

「まだあの手術簿を使っているのですね。しっかり絵を描いている」と私。「そうです。手術後の記録、手術を振り返り絵を描くことは外科医の基本です」と谷合教授。「絵を描く事により解剖と手技をより理解できます。反省もできる、次はこうしようとか、絵を描かない外科医は進歩しませんね」と私は調子に乗って話した。

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                                「武蔵小杉病院の手術簿1」

時代は流れても、変わらないものもある。変わってはいけないものがある。今日来てよかったとつくづく思った。秩父に帰った次の日、医局秘書さんに電話し、私が手術に入っている手術記録のコピーが欲しいとお願いした。おそらく1000件を下らないと思う。今でもその当時にやった手術の断片が脳裏に浮かぶことがある。肺癌の手術を最初にやったのも私だったと思う。若かりし頃の自分の手術記録を見てみたいと思うのは私だけであろうか。

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                                「武蔵小杉病院の手術簿2」

最近、自分の歳を意識する機会が多くなった。そう、10年くらい前まではあまり意識したことはなかった。振り返って、肉体的体力を除けば自分がもっともエネルギーがあり、気力・胆力が充実していたのは、還暦の前後の頃と思う。論文を5編書き外科指導医の資格を取ったのもこの時期、意を決して病院を移転したこと、空を飛んだのは60歳を過ぎていた。

しかし、55歳であったか、スキー場のリフト売り場でシニア割引になった時、流石に悲しい気持ちになった。でも、この時はまだ「得した」と思う方が優っていた。

何年か前、山手線で席を譲られたことがあった。「結構です」とムッとして断った。あんなに悔しいこと、ガッカリしたことはなかった。心にグサッと何かが刺さった。「お前はジジーだ」とどめを刺された瞬間であった。

若者は子供達から「お兄さん・お姉さん」と呼ばれていて、ある時「おじさん・おばさん」と呼ばれるようになる。これはこれでショックである。

最初の孫の時は絶対に「おじいさん」とは呼ばさず、「グランパ」と呼びなさいと叱ったが、結局「じーじ」となった。2番目の孫はとうとう「おじいさん」と私を呼ぶ。今は悲しくも悔しくもない。なぜなら家系図的にも正真正銘の祖父なのだから。ただ他人に言われ、これを当たり前とし、許容した途端に、年齢以上に気持ちが老いるのである。悔しいと思い続けたいものである。

 

先日、教授の退任慰労会に出席した。教授の定年は65歳が一般的だが、私より6歳も若い。学会の重鎮の先生達の挨拶、どの方々も立派で偉そう、当然年上に見える。私の席は主賓に近い上席で、乾杯の後、最初に挨拶をした。今、現役でバリバリやっている教授達は55歳位が中心という。16歳も年下である。偉いお年寄りの先生方が多いなと思っていたが、ふと、200人からいるこの会場の出席者の中で、年齢は上から数えて3本の指に入るのでは?自分の年齢と立場を改めて意識した瞬間であった。俺はすでに終末期の医者かとも思った。一方で65歳の退任は若すぎるとも思った。

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                                        「慰労会」

誰しも、年齢による肉体的衰えは20代を過ぎた頃より感じるであろう。この感覚はスポーツをやっていると顕著である。しかし、衰え方は人により全く違う。ここで負け惜しみを言おう。今年の2月何年かぶりに、大学のスキー部のOB戦に参加した。現役の6割には勝った。もしも来年レース前に1週間ポールの練習をやれば、3番目位のタイムは出せると思う。研修医との腕相撲でも、6割位は勝っているので。勝率9割は筋トレ次第で可能である。しかしこれら肉体的能力は年々必ず衰えて行く。もう着岸の時、船を蹴って岸壁に飛び移ることは出来ない。

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                                「20年前までの当院の手術簿」

では医者としての衰えはどうであろうか?これも負け惜しみかもしれないが、私は壮年期がピークであったとは思っていない。私は一般の定年の60歳、教授退任の65歳をとうに過ぎたが、現役を続けている。医療は急激に変化・進化ししているが、懸命に遅れない様努力しているつもりである。多少おこがましいが、私は理事長としての病院経営と院長としての役割・雑務、そして一臨床外科医としての仕事を一貫して行ってきた。私は歳をとったが、その分経験を積んだ。診た患者さんの数、手術の件数、範囲は大学の教授達には決して負けていないと思う。一般的定年の年齢より現在までも、それまでの延長上にある。良くも悪くも、私の様な医者はいないと思うのである。そして、手術の腕と思考はまだ伸びると信じている。なぜなら、根本的に私は手術が好きであるし、新しいものに興味がある。そしてこの半世紀に近い外科の歩みを、現場で体験してきており、継時的に過去と現状を比較できるからと考えている。それは手術のジャンルとか手技とかだけではない。私の性根は強欲と我儘と思っている。

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                               「当院の手術簿・私の財産」

さて、医師として私の今後の役割、目標であるが、最近はっきりと見えて来た気がする。それは若い医師達への指導である。いや、伝える・見せるといったほうが良いかも知れない。

初期研修医が当院に来だしてから十二、三年になる。彼らの大学での指導医は私の息子より若いであろう、教授にしても世代が全く違う。指導者を含め若い人達は、今を知ってはいるが、過去は体験していない。新しいことが、すなわち進化・進歩・良いことではない。良いことは過去と比較して初めて分かるのである。今の教育体制では、若い医師達が自身で良し悪しを判断する機会や環境は少ないであろう。

だからこそ、私の様な医者に、出番が回って来たと感じるのである。ありのままを見せてやろうと思う。自慢も反省も外科医のやるせない気持ちも・自分の背中を見せたい。これは研修医のみに言うのではない。あとは彼らの勝手、見るものの性格・資質であろう。これからは「新しさ」に遠慮せず、今まで以上に自分の考えを主張しようと思う。頭と目と指先が動くうちに、堂々と私の体験を示し、残さなければならない多くのことを伝えるべきと思っている。もう我慢はしたくない。


開院記念日(移転後8年)

今日は移転後8年、開院記念日です。改めて8年前が思い出されます。その3日後に東日本大震災が起こりました。

開院式の挨拶で私はこんな話をしました。「今後、本日ご臨席を頂いている方々を中心に多くの方々にお知恵を絞って頂き、この病院がきっかけとなり、近い将来この地が医療・介護・福祉の里となることを願っております」

あれから8年、3日後に起こった大震災でも大きな被害はなく、その後も当院は大過なく今日を迎えています。植栽は大きく育ち、今中庭には福寿草が満開です。北側の病棟脇の土手には蕗の薹が鮮やかな緑芽を出しています。

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院内幼稚園・花の子ハウスもでき、院長室の下の道には子供達の声が賑やかです。

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昨年まで栽培していた蕎麦畑は職員駐車場に変わりました。

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旧病院跡地はコイン駐車場に変わり、秩父神社参拝や多くの観光客が利用しています。

ここ2~3年に秩父の街並みも大きく変わりました。観光客の賑わいは目をみはるものがあります。

病院の周りも、一戸建ての家が増え続けています。売地や分譲の看板が目につきます。

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隣接して老人ホームの計画も進んでいるようです。この地も町が出来そうな雰囲気となって来ました。8年前の願い「医療・介護・福祉の里」が出来て来そうな予感があります。


2019年2月2日、院長ブログ・スキー部

日本医科大学スキー部のOB戦

2019年1月27日、久しぶりに新潟県石打で行われたOB戦に参加しました。

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日本医大スキー部は私が大学に入学した時に3年生の先輩の方たちが、まず同好会として立ち上げました。私も子供の頃よりスキーに親しみ、高校時代は山岳部に所属しながら、インターハイや国体に出ていましたので、すぐに入部、医学部の関東・東日本大会に参加し、スキー部の創立に多少の貢献をしたと自負しています。その当時、スキーは人気スポーツであり、部員も十数名いましたが、今回、何と20名を優に超える部員がいることに感激しました。若い部員たちと触れ合い、とても良い酒を飲みました。

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振り返ってみると、すでに創部50年以上を経過したことになります。その間、何度か消滅の危機もあったようですが、今の盛況は本当に喜ばしい限りです。現役には各大会での健闘を期待しています。

酒の勢いで、「明日のレースに私に負けたら、秩父病院に研修医として来るんだよ」と約束させ?翌日のレースに臨みました。予定通り?半数以上をゲットしました。

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OBの参加は私を含め4人でしたが、私の2学年後輩の女子部員のエースも参加、さらに、彼女の娘さんもレースに参加しました。その娘さんが私より早かったのには、悲しいやら、嬉しいやらでした。

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今後は創成期のOBの一人として、彼らを見守って行きたいと思っています。

現監督のOB先生と50周年記念誌のようなものが出来ないかの話題も出ました。今後その方向に向かって行ければ良いなと考えています。

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出初式

平成31年1月6日(土)、秩父広域消防出初式が行われました。そこで、救急医療従事者の表彰があり、当院から看護師1名、事務職員1名が表彰されました。

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秩父病院忘年会

秩父病院の忘年会が開催されました。

各部署で、この日の為に練習したダンスを披露、出席した全員が大盛り上がりでした。

最後に、全員にケーキが配られ大満足でお開きとなりました。

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2018年11月19日 創立130周年記念医療連携会

今回の院長ブログは、先日の医療連携会でお話しした内容を紹介します。

本日は久喜市長様、近藤医師会長様はじめ、医師会の先生方、行政の方々、秩父市議会議員の皆様方、こんなにも多くに方々においで頂き有難うございました。また、日頃からお世話になっている高次医療機関の医療連携室にもお声かけさせて頂きましたが、県立循環器呼吸器センターの星院長、石心会病院の石原院長・石井副院長先生、埼玉医科大学国際医療センターの大谷先生にもお出で頂きました。心から御礼申し上げます。

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今回の連携会の主眼である圏域を超えたより広域の医療連携についてのお話しが進んでゆくことを期待しております。

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御覧頂けましたでしょうか。

20年前に行った創立110周年記念式典のビデオです。なんとVHSです。この時も記念誌を作成しました。正直、記念誌の作成や式典をまたやるのもいかがか、とも考えましたが、当院と私にとっては、この20年は特別に色々あったと感じていまして、今回は「130周年記念医療連携会」としてこの連携会を開催させて頂くこととしました。実は、20年前の110周年記念式典と記念誌は、父がちょうど90歳を迎える時期で、父の秩父での医者としての半生を祝い、それを記録にも残したいと思い立ったからであります。父も家族もそのつもりであり、記念祝賀会として実に多くの方たち、医療関係者のみならず親族も含め、各界の方々にお出で頂き祝ってもらいました。頂いたお花には、長嶋茂雄さんや柴田選手、兄の関係で、中島悟さん等の自動車レース界や舘ひろしさん他、おおくの芸能人からも祝福を頂きました。

今回は祝賀会とは趣を異にし、あくまで、130周年記念・医療連携会として開催することにさせて頂きました。ご理解頂きたいと存じます。

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記念誌を作るにあたり、20年前の記念式典ビデオを見て、20年てこんなにも変わるのだと、改めて思いました。懐かしい方々、病院を去ったスタッフ、私を含めあんなに若かったスタッフを懐かしく思い出します。当院の現スタッフも20年まえにいたのは、僅か十数名であります。常勤医は私だけです。もちろん当時から当院を支えて頂いた多くの先生方が、今でも助けて下さっております。

この20年を振り返って様々な思いが浮かんで参ります。皆さん20年て長いものですね。あたためて考えて見て下さい。生まれてから20歳までの20年、20歳から40、40から60歳、60歳から80歳、二十歳までの20年は誰しも特別でありましょう。でもこれも同じ20年です。私のこの20年は50歳から今の70歳です。個人的には変わったと言えば変わったし、変わらなかったと言えばそれも納得です。ただ、父も母も兄もいなくなり、孫が3人できましたので、やはり大きく変わったと思います。当院の20年はお手元の130周年記念誌に書きました。

110周年の記念式典の時あんなにも多くの方々にご列席を頂き、励ましを頂き、職員達は「いい日旅立ち」を歌い病院は今に向けて出発致しました。

人の変遷と同様に、病院も大きく変わりました。もっとも大きな変化は病院の移転でしょう。私は病院併設のヘリポートが欲しくて、明治20年より秩父神社の隣にあった秩父病院を現在の地に移転しました。かなりの覚悟が必要でしたが、お手元の少し厚すぎる記念誌に、この時の経緯、私の心情も書き残しました。この記念誌にも多くの方々からのご祝辞、励ましのお言葉を賜りました。改めて御礼申し上げます。また職員全員の言葉、各部署の紹介、実績、研修医のこと、様々なイベント、院内保育所の花の子ハウス、すくすくと育った植栽の写真等、残しておきたい事を、目一杯載せました。私自身の今後の当院に対する考えや秩父の医療について、さらに今回の医療連携会の主眼であるより広域の医療連携の必要性についても書き留めました。この記念誌は、今回お越しになれなかった高次医療機関、私共が関わる大学病院の先生方等、日頃お世話になっている方々にもお送りし、ご理解を賜りたいと考えております。少し早い遺言のようになってしまいましたが、お暇な時目を通して頂ければ幸いです。重すぎて申し訳ありません。また、当院のホームページの院長ブログに、記念誌の内容の一部を発信してあります。

 

さて、医療もこの20年で加速度的に変化、進化しました。より細分化、専門特化し、医療水準も大きく押し上げられました。そして、それを成すには多くの人材と器機、費用が必要となりました。一方で患者さんの変化も顕著であります。救急医療におきましても、重症患者の主体は外傷でなく病気であります。超高齢化の中、当然心臓病、脳卒中等の血管疾患は益々多くなっております。

約30年前にH2ブロカーが発売されましたが、それ以前は胃潰瘍の治療は広範囲胃切除が主体でした。週に1回は胃を切っていた気がします。25年くらい前、心筋梗塞は即、死を意味する疾患でした。脳卒中も同様であり、助かっても多くは後遺症を残す疾患として、我々医師も患者さんも家族も世間も、そう思っていたと思います。しかし、今や医療は進化し、心筋梗塞も脳卒中も早期の治療により、もちろん全てではありませんが、治る疾患となったのです。

 

 そんな変化の中で、私はずっと以前より、地域の医療に大きな問題があると考えておりました。

我々医療者にとって、地域完結医療は目指すべき目標でありますが、これが困難なことはご承知の通りです。私は今まで「地域の病院が連携し、一つの総合病院として機能することが重要である」と言い続けてきました。しかし、今や可能なものと不可能なものがはっきりと見えてきた様です。もちろん進歩した部分もあることも事実ですが、特に心筋梗塞、大血管、脳卒中は相変わらず対処不能であります。しかもこれらの疾患は高齢化に伴い益々増加傾向にあるのです。

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さて、前置きはこのくらいにして、今回は医療連携会ですので、本題に入りたいと思います。

先に述べたような背景の中で、「当地域の救急医療の今後はどうすればよいのか」を連携会の主題としてご提案申し上げます。

 私は、まず医療者、市民、行政が今一度現状をしっかりと認識することが重要と考えます。その上で地域医療の将来にビジョンをもって取り組む必要があると思うのです。

 

 二次救急病院は減少し、小児二次救急を担う施設はありません。先に述べた心筋梗塞や脳卒中に対しては、相変わらず対処不能です。お産は岩田先生が懸命に頑張っておられますが、これで良しとは決して言えません。皆様はどれくらいの患者さんが、どのような疾患で救急車あるいはヘリで地域外の高次医療機関に運ばれているかご存知でしょうか?

 

秩父消防の平成29年の資料をご照会します。まず、救急搬送の全体像ですが、

1年間に救急車で医療機関に運ばれる人は4384人います。そのうち急病・つまり病気が2605人(約59.4%)です。この内、重傷者は死亡例の82人を合わせ、335人(12.8%)、ちなみに軽症患者1348、中等症患者は922人、合わせて2270人(87%)であります。

まとめますと、

以前は交通外傷、労災事故等の怪我が多い傾向でしたが、今は急病が半分以上を占め、急病患者の内、重傷者は約13%と少なく、ほとんどが軽症・中等症患者と言うことになります。

疾患別に見ますと、心疾患が246人で一番多く、3番目に脳疾患164人、併せて410人(15.7%)ですが、重傷者に限って言えば、脳疾患が一番で77人、次に心疾患の67人、計144人(57%)と重傷者の半分以上を占めます。ちなみに心疾患の死亡例75人を含めると219人となり実に重症患者の86.5%を心臓、脳疾患が占めることになります。

いかに当地域にとって、心・脳疾患が深刻な状況であるかが分かります。

 

では年間何人が救急車やヘリで管外の医療機関に運ばれているでしょう。

1年間に管外の医療機関に搬送される方の総数は796人(全体の18%)です。この内、管内の医療機関から対処不能等の理由で管外に搬送される人数は520人、現場から直接管外医療機関に搬送される人数は275人です。実に毎日二人以上の方が管外に運ばれています。

主だった管外搬送先病院を紹介します。埼玉医科大学国際医療センター201人、県立循環器呼吸器センター142人、埼玉医科大学病院131人、深谷赤十字病院87人、関東脳神経外科病院80人等であります。

星先生、大谷先生、いつも本当にありがとう御座います。

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 ちなみにヘリが搬送に関わった件数は111件ありますが実際に搬送された件数は82件です。この内、当院のヘリポートよりの搬送は6件でした。

この資料では、どのような疾患、あるいは、どの程度の緊急・重症度の患者さんが搬送されたかの詳細は分かりませんが、恐らく当地で対処不能である、心、脳、大血管が多くを占めていると思われます。

 私は改めてこれらの数字を見て、本当にびっくりしたと同時に複雑な思いに囚われました。

私は45年間この地で医者をやってきて、思うのですが、等地域の医療は以前と比べて中央の医療が進化してきている分、相対的に退化していると言っても過言ではないと思うのです。その証拠を突き付けられた思いでありました。と同時に無力感に囚われました。

 

話を戻します。ただ、悲観的なことをいくら言っても仕方がありません。

私はこれらの現状を前向きに捉えたいと思っています。

昨年、埼玉県では脳卒中に対する収容病院が整備、通知されました。脳卒中ネットワークと言います。秩父消防の救命救急士も随時増員され、救命士の能力の向上とメディカルコントロールシステム下に、緊急医療行為も拡大しました。この結果、救急隊員によるトリアージ能力も向上し、現場より、管外専門病院への直接搬送も多くなっております。また、未だ十分とは言えませんが、ドクターヘリ搬送も増加傾向で、緊急疾患の搬送に極めて有効な手段となっています。当院のヘリポートよりの搬送も、私が当初期待していた件数には程遠いですが、これが決め手となって救命できた症例も多数あります。当院の血液の備蓄も大きな進歩と思っています。

これらのことは秩父市民にとって大変すばらしい地域医療の進化と言えます。

 正直、地元の医者である自分にとって一抹の悔しさはありますが、患者さんにとって何が最良かを考えると、いち早く適切な施設へ運ぶことこそ重要であることは申すまでもありません。秩父に暮らしていたから、死んでしまったとあっては、医者として痛恨の極みであります。

 そこで今時点で、私が思うことは、より広域で、よりきめの細かい医療連携システムの構築であります。医療圏とか、県境とか、そんなことに囚われない連携、既成概念に囚われない連携であります。例えば、疾患別の連携、夜間に重点を置いた連携、あるいは転送先の確保のため役割組織作ること、病床の確保、転送に付き添う医師の確保も必要でありましょう。対処不能な場合適切な受け入れ医療機関を見つけ、安全に迅速に搬送する作業はそう簡単ではありません。心筋梗塞、脳卒中のような疾患は早期の治療が必要であります。はっきり申し上げます。当院のような二次医療機関に運ぶより直接専門病院に運ぶことが患者の為になるのです。もっと言えば、重症で緊急度の高い脳、心、大血管疾患は、悔しいけれど昼間のヘリ搬送を除けば、秩父病院は役に立ちません。

私はせめて出来る事として、負け惜しみのような感覚でヘリポートを作りました。

 

 ここで、ドクターヘリと病院併設のヘリポートについてご説明し、ご理解を賜りたいと思います。

ヘリ搬送そのものは何と言っても搬送時間の短縮が魅力であります。埼玉医科大学国際医療センターまで約8分で到着します。次に、ドクターヘリが私共にとってありがたいことは、医師の添乗が必要なケースでも、当院の医師が救急車に乗って行かなくて良いことであります。ただでさえ少ない医師が居なくなることは大変な負担であります。病院併設のヘリポートの利点は、救急車からヘリへの乗り換えや転院等で、患者を医師やスタッフ、機材の整った病院内で管理できる事であります。また的確な検査が可能であり、正確なトリアージが出来る事、一般のヘリポートとは医療上の機能が全く違うのです。

ご理解頂きたいと思います。

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 本日お越しいただいている石心会病院は先ごろ新築移転し、屋上ヘリポートを併設されました。当院と秩父地域にとって、頼もしい病院が身近になったと考えております。今後、ヘリ搬送やドクターカーによる搬送に大きな期待を寄せさせて頂いております。是非とも宜しくお願い申し上げます。

 

本題に戻ります、今回の医療連携会の具体的議題を提案させて頂きます。

当地域で対処不可能症例に対し、現状でどんな方策があるか、将来のビジョンはどうあるべきかについて、ご議論頂きたいと考えます。

国は救急医療体制として、1次、2次、3次救急医療システムを作っております。3次救急に当たる救命救急センターは100万人に1施設の割合で整備されています。埼玉県は700万人を超えましたので、7施設あるはずです。本来は二次救急で対処できない場合、その地域の3次救急病院が引き受けると言う机上の設計図であります。当地域は深谷赤十字病院がこれに当たりますが、この1次、2次、3次救急という段階的なシステムは機能しないことは明白であります。

私としては、脳疾患については一応の整備が整った今、せめて心疾患についても同様の体制、仮称「心筋梗塞、大血管疾患ネットワークシステム」が整うことを願っています。

また、現状のメディカルコントロールとは、1、救急救命士に対する指示及び救急隊員に対する指導助言体制の強化、2、救急活動の事後検証体制の構築、3、救急救命士の再教育等の充実、であります。

 しかし、私は、その名の通り救急医療全般のメディカルコントロールをやって頂きたいと思います。つまり先に述べた、高次医療機関への患者搬送に関わるマネージメントをやって頂きたいと考えます。医療機関の選定、連絡、確保から搬送方法の指示、願わくば添乗医師、ドクターヘリ、ドクターカーの整備、確保までやるシステムの構築であります。ただ、何も全てを深谷日赤病院が担うべきと言っているのではありません。誰かが、音頭をとって、何処かが引き受けるべきと思っています。行政しかないと思いますが、現状では夢の様な話ではあります。夢は叶っても叶わなくても夢、希望・あるいはビジョンは必要と考えます。一方ではシステムと言うより、個々の病院間の強い絆も必要と感じています。お互いの顔の見える連携が必要であります。この連携会もそのためのものでもあります。

 

そんな訳で、今回の連携会は当院の紹介はビデオにとどめ、講演会等も準備しておりません。テーブル席もそれなりに工夫させて頂きました。是非ともテーブごとに、あるいはテーブルを超えて、お食事を召し上がり、アルコールも入りながら、忌憚のないご議論を交わした頂きたく思います。それぞれのお立場より、様々なご意見を交わして頂き、この連携会が将来へのビジョンに何らかの役に立つ事を願っております。各テーブルが議論の席と考えております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

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 ところで、先日、私どもは二次救急輪番について、夜間・休日の一部を辞退したい旨、お伝えしました。

このことについて少し触れさせて頂きます。この意味は皆様に、特に公の方々に危機感を持って頂きたいと言う一念であります。私は以前より、35年来と言っても良いですが、様々な機会で地域の救急医療の現状を訴えてきたつもりです。一部辞退についても、急に言い出したのではありません。1年半前より言っていました。

あまりにも長く、変わらないことに焦れて、すねてみたのであります。今回の連携会に期待しているように、本音の議論をしてもらいたいと思ったからであります。専門以外の患者さんを含め、一人の医師に夜間の救急の全てを担ってもらっている事に、今や院長として、あるいは医師として、罪悪感さえ感じていること、は本音であります。当院が完全に夜間救急をやめれば、少しは意識が変わるのでは、とさえ考えた事もあります。しかしながら、議論がない事、進歩というより、始めない事、始まらない事に苛立ったからであります。

 

最後に一つだけ、私どもが開いた医療連携会ですので、少しアピール、宣伝をさせて頂きます。脳・循環器の急性疾患以外の疾患、こと消化器に対しては癌を含む慢性疾患・急性疾患は当院のもっとも得意とするところであります。手術は基より、内視鏡検査、ESDやERCP・EST、胆道・消化管ステント術等の手技、特に大腸ステント術は一昨日、埼玉県外科集談会で、研修医が症例を発表しました。来年の埼玉県外科医会では大野君が研究発表もする予定です。こと消化器に関しては、多くの治療が当院で十分に対処可能であります。当然外傷外科もほとんど対処できると思っています。

専門性という意味では、呼吸器外来を始め、医師会の先生方、埼玉医科大学の先生方の応援を得て、化学療法、膠原病、循環器、神経内科、糖尿病、乳腺、形成外科外来等を開設しています。

 

また病院歯科としての機能、有疾患患者さんの治療、小児、全身麻酔下の歯科治療も得意分野の一つであります。

手技の正確さ、迅速さ、手術適応の正確さ、チーム医療においては管外高次医療機関に負けないと自負しております。救急疾患に限らず、初診から診断、治療まで速さは大病院では出来ない事の一つと思っています。

あまりに悲観的な事を申し上げましたので、最後に自画自賛させて頂きました。基本的には、当院は得意分野で地域に貢献したいと思っております。当然、平日の昼間の救急患者の受け入れは、今まで通り救急告示病院の役割として続けて行く所存です。夜間2次救急輪番体制よりの一部辞退をお伝えしたのであります。この事を1年間延長しました。その間に救急医療に関する様々な難題が少しでも解決することを期待したいと思っています。

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 さらに最後に一つだけ、それでも地域完結が将来可能とすれば、それが市民にとって一番良い事でありましょう。情けない事をいっておいて、今更と思われるでしょうが、諦めたら終わりであります。また、資料の中で、疾患や重症度が確認されている転送搬送88人の事例に目を通しました。転送搬送とは救急車で我々地域の病院に搬送された後、専門あるいは高次医療機関への搬送が必要と判断され、そのまま管外に搬送される事ですが、当院を含め地域内で対処可能であったと思われた症例も散見されました。当然、管外搬送患者796名の総てが重傷者で、地域内で医学的に対処不可能であった訳ではなく、様々な理由で管外搬送となったのですが、私は地域内の連携により少しでも地域で対処できるようになり、管外搬送が減ることは、市民にとって良いことであり、これも適格な管外搬送と同様に、地域病院の使命であると思っています。

 

ありがとう御座いました。

以上、当地域医療の問題点を指摘し、ご議論を頂くことをお願い申し上げまして、開会の挨拶に返させて頂きます。宜しくお願い申し上げます。

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秩父ミーティング・テキサスバーベキュー

10月14日(日曜日)、巴川オートキャンプ場で職員・家族、研修医・OBが集まり本場のバーベキューを味わいました。

幸い曇りがちではありましたが、時折☀もさし、子供達も存分に遊び、腹いっぱい食べました。リブステーキ、サーロインステーキ、若鳥の蒸し焼き、鹿肉ソーセージ、巨大サラダ、その他、数えきれない料理、最後に肉汁たっぷりハンバーガー。ともかく総て美味しかったです。森田さん、キャリーさん有難うございました。

また来春にやりたいと思います。さらに多くの参加を期待します。

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松崎クルージング

10月初旬の連休に台風をやり過ごし、松崎クルーズに行ってきました。今回は母校の研修医でヨット部OBと当院スタッフを連れて、クルーザーの醍醐味を味わってもらいました。

風速20メーター位吹きましたが、苦労した後は凪です。

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院長ブログ

二次救急医療体制 その2

 

平成30年7月4日のこのブロブに当院の夜間二次救急医療体制について、「段階的に縮小して行く方針である」という今後の方針を書きました。

今回は改めてその経緯と趣旨・理由を書き留めて置きたいと思います。

 

1、平成29年4月1日 院長ブログ に救急医療に対する今後の当院の方針として、

来年度(平成30年度)より段階的に縮小させて頂きたい旨と公的病院の役割について書きました。

 

2、平成29年9月 9月の秩父市報に同様の内容を書きました。(これはブログに紹介済)

 

3、平成30年4月23日 医師会長、広域の長である秩父市長に、当初の予定を1年延期し、平成31年度より、『日曜昼間、日曜夜間の救急担当辞退』したい旨、文章で通知しました。

 

4、平成30年7月4日 院長ブログ 130周年記念誌の20年を振り返って:当院の基本方針の中で、当院の夜間・日曜の二次救急診療を段階的に縮小する趣旨と理由を書きました。

 

5、今回(平成30年10月)、熟慮の末、下記の文章を医師会長および秩父市長あてに通知しました

 

救急担当辞退内容の変更について

 

 時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、平成30年4月23日付で平成31年度の救急担当について、日曜昼間と日曜夜間の担当辞退をお願いしていた所ですが、諸事情を鑑み、平成31年度は現状通り行い、平成32年度の救急担当については日曜昼間と日曜夜間及び土曜夜間の担当を辞退したくここに通知させて頂きます。

私共が平成294月に救急担当の段階的縮小を表明してより、1年半が経過しました。平成32年度でまる3年となります。今後の1年半の間に、当地域の対処不能症例に対する対策と、より広域の医療連携システムの構築がなされる事を期待したいと考えます。ご理解の程、宜しくお願い致します。

                         医療法人花仁会 秩父病院院長 花輪

平成29年4月に私共が当院の夜間・日曜の二次救急診療の段階的縮小を表明してより1年半が経過しました。この間上記したように、機会をとらえて、「あくまで患者の立場に立ち、当地域のあるべき二次救急体制の見直し」について発信してきましたが、私が期待する前向きな対策は何一つ成されておりません。

 

今回の変更通知の意味は、平成32年度までの、さらに約1年半の間に、地域で困難な疾患・症例の二次から三次救急医療がより円滑に成されるような体制の構築を期待し、関係者全員の危機感と本気度・気概を喚起することが目的であります。全国標準の医療が為されない地域には、誰も住みたいとは思わないでありましょう。

もちろん私共も ①自院の機能の向上 ②さらに多くの高次医療機関と円滑な連携 ③画像転送や迅速な情報提供 ④救急担当医師の派遣依頼と人員交流 ⑤ヘリ搬送のさらなる有効利用等に努めて行きます。

早速、来る平成30年11月19日には、「秩父病院創立130周年記念医療連携会」を開催します。多くの高次医療機関の医療連携室の方々および医療福祉部会の市議会議員様にもご案内を差し上げております。この中で、当地域の救急医療の現状をご理解頂き、議論が深まることを期待しています。

現段階で、具体的に私の頭の中にあることは以下のものです。

 

1、まず現状を認識し、患者の立場に立って当地の救急医療を考えること。(当地には小児二次救急施設・脳梗塞対処病院がないこと、年間600件を優に超える管外搬送があること。産科施設・二次救急病院の減少、急激な医療の進化により高度医療が日常的に行われるようになり、相対的に対処不能症例が増加している事、それに伴い患者・家族の要望も変化していること、等々)

 

2、秩父市立病院の救急医療体制の充実(地域中核病院たる専門医療の整備。せめて脳梗塞に対するTPA治療が出来る体制の整備等、将来的目標、ビジョンを立てる)

 

3、当地域が医師不足地域かつ準医療過疎であることを踏まえ、より広域的救急医療体制の構築(すでに全県下で整備された脳梗塞にたいする収容病院群体制に加え、同様に急性心筋梗塞等にたいする体制整備)等に対し、当地域の行政、医師会その他医療関係者が積極的に関与し、県、国に対して要請すること。

 

4、その他、医師確保のための既成概念に囚われない実効性のある対策等、一歩踏み出すことを期待するものです。

 

 


院長ブログ

その14

さて、怒ってばかりいること、人に自分流を押し付けることは、年を取ったことの証拠である。「今の若い者は」と言う言葉は山本五十六長官も「禁句」と言っている。

彼はこうも言っている「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」

私はそろそろ耐用年数が切れかかっていることも、馬鹿さも若さもなくなりつつあることも自覚している。

振り返って、医者になってからここに至るまで、医師、病院の院長・理事長として私を支配して来た観念は『我慢』であった。㊸

孔子の言う「70歳の従心」は、私には到底無理である。こらえ性の無い私が、どうにかこの病院を維持して来たことが出来たのは、当然のことながら、周囲の支えがあったからである。

 

妻の支え、両親、子供達や孫という家族の存在があった。多くの人との触れ合い、友情、援助があった。平成307月現在、長女(福田千衣里)は秩父に孫(光志14歳)と住んでいる。次女夫婦(長谷川義朗・小百合)は私の自宅に隣接して家があり、二人の孫(さら5歳、慎之介1歳半)と暮らしている。長男(洋介)は実家に住み、この4月より歯科医師として秩父病院の勤務が始まった。3人の子供達と孫までもが、すぐ近くにいる。しかも、義理の息子を含む全員の子供達が秩父病院で医師、歯科医師として働いているのである。私にとってこれ以上の心の支えが他にあろうか。感謝しかない。

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加えて、私の特技、「オンとオフの切り替え」がこれを可能にしたと思っている。この20年間、私が健康を保てたのは、犬達のお陰である。レオはレオンベルガーという犬種で、体重は85キロあった。一度座り込んだらテコでも動かなかった。6歳で前足に骨肉腫ができ、大手術と化学療法を行ったが、逝ってしまった。ジャックはゴールデンレドリバーとしては破格に大きく、その引っ張り方は強烈である。ポン太はフレンチブルで中型犬であるが、ダッシュ力は半端ではない。彼らたちとの毎日のミューズパークまでの散歩は私の足腰を保っている。本当にピュアーで可愛い奴らである。ジャックは新病院開院の年、生後3ヶ月で我が家にやって来た。従って、新病院と同じ年を重ねている。㉟ 20181004163050.jpg

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 私は110記念誌に私はこう書いている。「25年間、私は常に走っていた。時には全力で、時にはフラフラと、時には立ち止まりたくなったり、リタイヤしたくなったが、振り返らずともかく走っていた。気持ちよく走ったこともあるが、どういう訳かゆったりと走った記憶がない・・・・どこまで走り続けることができるのか、正直言って私には自身がない。しかし、今までのような走り方でなく、もっとゆったりと踵を地につけて、大勢で励まし合いながら一歩ずつでも前に進むことができれば、どうにかこの小さな病院の歴史の中の自分の分担区間の次への中継点まではたどり着けそうな気がしている」と。今私は130周年記念誌の一ページをかきながら思う。「そうだよ、ゆったりとではなかったけれど、多くの人たちに支えられて、もう少しのところまで来たよ」「好きなことを好きなようにやって来ただけ」

孔子の言葉は、総てにおいて当てはまらなかったこれまでの私であるが、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」正にそう思う。

しかし、幸か不幸か、欲深く未熟な私には、未だ自分の道が見えない

 

私の文献索引

 ① 昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」

② 昭和60(1985)年10月30日発行 医師会誌第6号 「小笠原航クルージング航海記」(昭和60年6月5日~6月31日)

③ 平成元(1989)年7月10日発行 外科医会15周年記念誌「南の島の落とし物」(昭和61年 ヤップ島クルージング)

 ④平成元(1989)年10月6日発行 医師会誌第13号「イワナの話」

 ⑤平成3(1991)年7月1日発行 医師会誌第15号「ある日の夢」

 ⑥平成5(1993)年6月15日発刊 医師会誌第18号「福島先生へ」「親善ソフトボール大会」

 ⑦平成5(1993)年12月13日発刊 医師会誌第19号「夜明け考」

 ⑧平成6(1994)年7月15日発行 秩父外科医会20周年記念誌「水槽小話」

 ⑨平成6(1994)年8月5日発行 医師会誌第20号、「イルカからのメッセージ」

 ⑩平成9年(1997)年113日発刊 「秩父病院・百十周年記念誌」

 ⑪ 平成10(1998)年3月8日発刊 医師会誌第25号「第6回医療関係団体親善ソフトボール大会」

 ⑫平成11年(1999)年10月1日発行 秩父外科医会25周年記念誌「98年『喜望峰Ⅱ』クルージング」

 ⑬ 平成13(2001)年10月1日発行 医師会誌第30号 「岩田充先生を偲んで」「三上哲先生を偲んで」

 ⑭平成14(2002)年9月1日発行 医師会誌第31号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その1)」

⑮平成15(2003)年6月1日発行 医師会誌第32号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その2)」

⑯平成16(2004)年3月1日発行 医師会誌第33号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その3)」

⑰平成16(2004)年12月24日発刊 医師会誌第34号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その4)」―北前船の旅―」

⑱平成17(2005)年12月20日発行 医師会誌第35号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その5)―北海道の旅―」

⑲平成18(2006)年12月20日発行 医師会誌第36号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その6)-平成17年 秋  クルージング・帰航―」

⑳平成19(2007)年11月18日発行 医師会誌第37号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その7)ー突然の終焉、海と船への思いー」

*平成101998)年53日西伊豆松崎出航~平成172005)年1014日に福島県のいわきサンマリーナに到着するまでの7年間の航海と回想を医師会誌に計7回にわたり連載させて頂いた。

 

㉑平成20(2008)年5月30日 連載を一冊にまとめた航海記発刊 「『喜望Ⅱ』私の日本一周クルージング航海記」

 ㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」

 ㉓平成16(2004)年12月24日発行、医師会誌34号「父・花輪吉夫と整形外科」

 ㉔平成16(2004)年 埼玉県医師会雑誌661号「当院における胃切除後器械吻合(縫合

 ㉕平成17(2005)年 埼玉県医学会雑誌第40巻第1号「幽門側亜全摘術における自動吻合器による再建(器械  吻合)の工夫」(第22回埼玉県外科集団会発表)

 ㉖平成18(2006)年、埼玉県医学会雑誌第40巻第2号「重積をきたし肛門外に脱出したS上結腸癌の1例(第23回埼玉県外科集団会発表)

 ㉗平成18(2006)年3月発行 埼玉県外科医会誌第25号 談話室「『知床』世界自然遺産に思う」

 ㉘平成19(2007)年3月発行 埼玉県外科医会誌第26号 挨拶「自己紹介」

 ㉙平成19(2007)年9月 消化器外科第30巻10号 通巻第375号 症例報告 ヘルス出版「食道胃、食道空腸吻合におけるダブルステイプリングテクニック『金属ワイヤー法』の経験」

 ㉚平成20(2008)年10月30日発行 日本外科系連合会誌第33巻5号「食道浸潤噴門癌に対し、左開胸開腹下にdouble stapling technique(DST)-金属ワイヤー法―にて食道胃吻合を施行した1例」

 ㉛平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号・群像2008「還暦外科医の呟き」

 ㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」

 ㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)

 ㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」

 ㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」

 ㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」

 ㊲平成22(2010)年12月31日発行 秩父外科医会35周年記念誌「アラ還の意地と欲」

 ㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」

 ㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」

 ㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」

 ㊶平成24(2012)年12月 MediCon.医療の最前線『秩父の山々に囲まれた緑豊かな「結界」」

 ㊷平成25(2013)年7月 DOCTORAES 郡市区医師会の現場を見てみよう

 ㊸平成25(2013)年12月25日発刊、医師会誌43号「『もういいかい』と『まあだだよ』のはざまで」

 ㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」

 ㊺平成26(2014)11月 日本の元気な病院&クリニック 開放病床とオープンシステムで地域全体の」「総合病院化」を図る

 ㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR'Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」

 ㊼平成27年(2015)年3月発刊 埼玉県外科医会誌第34号 学術講演会 「第

29回埼玉県外科医会学術講演会」 談話室「夢の空中散歩」

 ㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)

 ㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワークについて)

 ㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」

5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割

 51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com

 Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」

Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命

 52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号

秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」

 

私の意固地な考えと愚痴、自身への叱咤激励と多少の期待、「私の20年」は遺言のようなものになってしまい、文献(駄文)の集積は私の遺稿集の準備の様相となってしまった。

 私はそれで良しと思っている。もう我慢はしたくないと思う今日この頃である


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その13

『病院を建築中、ほとんど毎日、現場を見に行った。すると、ブーンという音に空を見上げると何かが飛んでいるのに気づくことが多くなった。モーターパラセールである。ゆったりと大空を漂っている。実に気持ちよさそうである。以前より気になってはいたが「誰が、どこから、どのように飛んでいるのであろうか」が無性に気になり始めていた。

誰しも子供の頃に空を飛んだ夢を見たであろう。私も幼少期にこんな夢をみた。それは必ず同じ夢で、秩父神社と自宅の間にある道を、両手を広げ全速力で駆けると、浮き上がるというものである。高さは1mか2mで、それ以上は上がらず飛ぶと言うほどではないので、もしかしたら本当に出来るのではないかと感じられ、この夢を見た時には必ず飛び起きてこれをやってみた。その度にいつも裏切られたが、もっと早く走れれば浮き上がるだろうと思って、あまりがっかりもしなかったように思う。「何時かは飛べるかも知れない」子供の夢はそんなもの、可能性に満ちている。

新病院の完成後、私は熊谷のモーターパラスクールに入門、訓練を開始した。平成232011)年104日初講習、1016日には朝霧高原に行き、初めてパラセールを体験した。タンデムといって、二人乗りの前の座席に乗り、ベテランのパイロットが空へ連れて行ってくれるのである。私は高所恐怖症ではないが、決して高いところに強くはない。20181003143605.jpg

平成232011)年11月、4回目の練習で、初めて空を飛んだ。久々の感激であった。その時の撮ってもらった写真、自分でもこんなに嬉しそうな顔を見たことがない。20181003143641.JPG

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その後、平成24年の元旦、新病院の上を始めて飛んだ。子供の時の夢が63歳になって叶ったのである。しかも自宅と新病院の上空を飛べたのであるから、これ以上の贅沢な満足はない。正に天にも昇る気持ちであった。㊼

 

平成24年、病棟の北側の隣接地の一部を借り、蕎麦の栽培を始めた。収穫して天日干し、そこから先は当院の看護師さんのお父さんでプロのお蕎麦屋(三千乃家)さんに打ってもらう、自家製蕎麦である。病棟の窓から患者さんが楽しめる様に赤い花の蕎麦を植えたのが最初である。大沢勝太郎さんから今は、田中英生、斎藤陽子さんに引き継がれているが、正に精魂込めた逸品である。

これを年末から春先にかけて、当院が日頃からお世話になっている方々にお配りしている。心からの御礼のつもりである。当たり前であるが、喜ばれなかったことはない。実際に世界一美味しい。汗も魂も入っているのであるから。20181003143824.JPG

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その12

私なりに頑張ったことがある。

平成142002)年、当院は日本外科学会専門医制度関連施設に指定された。各学会の指導施設や関連施設になるには、それぞれ、独自の条件をクリアーしなければならないが、必須条件は専門医。指導医の在籍の有無である。この年、埼玉医大の外科の助教授まで務め、日本外科学会指導医の資格を持つ山崎達雄先生が副院長として当院に入職した。加えて私を含め二人の専門医がおり、当院が関連施設に指定されたのである。しかし、山崎先生の退職に伴い、この資格は取り消されてしまったのである。この資格は病院の格や質はもちろんであるが、特に医師の確保、若手医師の教育には是非とも欲しいものである。自分が指導医になるしかないと思った。それにはトップ名の論文が5編必要である。一念発起し、私は平成162004)年〜平成20年(2008)年、57歳から61歳の5年間に1年に1編ずつ、計5編の主に器械吻合に関する論文を書き、外科指導医を取得した。結果、失っていた学会関連施設に復帰できたのである。㊲これは大学に勤務する医者ならともかく、私のような小病院のアラ還外科医が簡単に出来るものではない。外科医としてのプライドと院長の意地、大げさに言うと病院の存続をも賭けた大仕事であったと思っている。㉔㉕㉖㉙㉚

 

昭和55年に本格的に秩父に帰って来て以来、平成2年に院長、平成10年に法人の理事長となったが、休むことなく働いた。手術は十分すぎるほどやった。何かに追われるように常に走っていた。110周年記念誌の作成(平成9年)もその一つである。病院建物の増改築は大きなものでも数回行なった。駐車場の整備拡張、院内施設の改装、いつも工事の音が聞こえていたような気がする。

平成10年以降も環境改善に邁進した。医者以外の私の仕事も日々膨張していった。医師会の仕事、秩父病院だよりの発刊、ホームページの開設・院長ブログ、病院機能評価、医療連携会、初期研修医の受け入れ、学会認定施設の取得、学会活動、論文、医師会誌・外科医会誌・医療系雑誌等への投稿、行政が開催する各種委員会での提言等々。その過程が、平成23年の病院移転に向かってのエネルギーを蓄えて行った様に思う。

ただ私も病院スタッフも、仕事一辺倒だった訳ではない。オンとオフの切り替えは私の特技、病院の伝統でもある。古く父の時代、私が幼少の頃より、海の家と称して、逗子・鵠沼・西伊豆等に連泊の病院旅行を行なっていた。小学校4年の時、父の引率で、看護婦さん達と富士山に登ったこともあった。私の代になってからも、様々なレクレエーションを企画した。病院旅行、ソフトボールやバレーボール大会、渓流釣り大会やバーベキュー、もちろんスキーやヨット旅行もやったし大勢で武甲山にも何度か登った。この20年を振り返っても同様の路線は続いているが、残念ながら、ゆったりとした時間の流れ、古き良き時代は回想の中にしかない。20180921113215.jpg(職員旅行・皇居にて)

自分の個人的遊びは相変わらず続けている。喜望峰Ⅱによる、日本一周クルージングには、職員の何人かも参加した。しかし、正確に言うと『日本一周』は完璧ではない。なぜかと言うと。出発点の西伊豆松崎までは到達せず、茨城県のいわきサンマリーナで中断となったからである。船はここにいる間に買い手がつき、平成19年冬、日本海を韓国に渡っていった。その約4年後、大津波により、いわきサンマリーナは壊滅したのである。素敵なレストランもある、設備の整った綺麗なマリーナであった。係留されていた全ての船が消え去った。痛恨の念に堪えない。20180921113417.JPG(いわきサンマリーナ)

平成202008)年、私は現在の喜望峰Ⅲを手に入れた。この船は平成203月に愛知県蒲郡のラグーナマリーナで進水し、その後瀬戸内海、大分などでクルージングを楽しみ、平成225月5日に沖縄の宜野湾マリーナに到着していた。平成23年の大津波の被害は全く受けずに済んだのである。20180921113502.JPG

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幸運と言う他はない。

今は、沖縄から帰って来て、平成265月より静岡県の富士山羽衣マリーナにいる。私の第三の故郷との言える松崎に頻回に釣りとクルージングに出かけている。最近では時々病院スタッフや研修医を連れて行っている。ちなみに、第二の故郷は新潟県湯沢である。私が5歳の頃よりスキーをはじめ、その後私のスキーを育ててくれたところである。第三の故郷へは20歳の頃より通っているので、もう50年になる。20180921113700.JPG

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その11

 タイムリーを目論んだため、前後してしまったが、130周年記念誌の「私の20年」を最初から紹介したい。

 

『私の20年』

 

『私にとっては50歳から70歳、子曰く「吾、五十にして天命を知る 六十にして耳順い 七十にして心の欲する所に従いて のり を踰えず」の時期である。

孔子の教えとは無関係に過ごした私の20年、仕事か遊びか、どちらを書こうか迷ったが、私らしく、ごちゃごちゃにして書き残しておくことにした。

 

平成101998)年5月、私はヨット「喜望峰Ⅱ」で西伊豆松崎より日本一周クルージングに出発した。仕事の合間を縫って、週末と連休、夏休み等に細切れの航海を続け、平成172005)年10月に福島県のいわきサンマリーナに到着するまで、7年半をかけた日本一周クルージングであった。 人から「良くそんな暇がありましたね」と聞かれることがあるが、振り返って、「自分でも良くやれたものだ」と思わないでもないが、決して仕事に手を抜いた訳でもない。仕事と遊びどちらも大好きであるが、一方だけでは長続きはしない。しばらく海にいると無性に仕事がしたくなり、しばらく仕事をしていると強烈に海に行きたくなる。オンとオフの切り替えはそれぞれを新鮮化し集中力とエネルギーを倍増する。こんな私の性分は一生変わらないと思っている。②③④⑨  20180919183639.JPG

私は50歳を過ぎた頃から、55歳、60歳、65歳で医者をやめる、と周囲に言ってきた。㉛ 今、古希を過ぎ、最近は東京オリンピックでやめると病院スタッフに公言している。「五十にして天命を知る」欠片もなかった。いずれにせよ、どちらか一方が全くなくなったら、生きていけないかも知れない気がしているが、論語の古希を迎えた人への教え「心の欲する所に従いて のり を踰えず」の前半はともかく、後半を実践できるとは到底思えない。

 

この20年の医者としての仕事、外科医としての毎日の業務、外来、検査、手術は、多くの優秀なスタッフに恵まれ、さほどの苦労をしたことはない。以前の一時期、昭和55(1980 )年から平成31991)年の11年間、手術室の上の自宅に住み、外来、検査、手術をやり、毎日が当直であった頃と比べれば天国と地獄の差がある。当時は通常の宿直に加え、週2回の二次救急当番があった。自宅のドアーを開ければ人工呼吸器の音が聞こえた。起こされない日は無かった。 今でもはっきりと覚えている悪夢のような出来事もあった。そうあれは、私が42歳、医者になって18年目(昭和の終わり頃)、もう出来ないものはないと自信過剰、怖いものはなかった。ちょうどその頃、常勤医師は父と私の二人だけとなってしまっていた。たて続けに、重症患者さんや手術後の患者さんをMRSA感染症で複数失ったのである。2週間ベットサイドでほとんど眠らずに治療に当たった。不整脈が出て、自分の命が削られて行くのが分かった。自分の身体を酷使することが患者さん達に報いる唯一のことと思った。天狗の鼻はへし折られ、精も魂も尽きた。医者をやめようと思った。そして親父もこう言った「峰夫、もうやめよう」。ただただ情けなく、悔しかった。それから、『何歳になったら医者をやめよう』が口癖になった。「四十にして不惑」ならぬ迷走であった。あの光景は未だに夢に出てきて魘されることがある。一生背負って行かねばならないと思っている。⑤

しかし、古希を過ぎた現在、多少は気力、体力、胆力、最近は視力が落ちてきたが、今でも自分の手術がない日は憂鬱である。ラパコレは好きであるし、腹腔鏡下手術にも興味がある。いくつかの新しい手術も開発した。鼠径、腹壁瘢痕ヘルニアに対する新しい術式や食道吻合におけるDST等である。根っからの手術大好き人間であることに変わりはない。院長室の書棚に昭和35年からの手術記録簿がある。昭和47年までのものは大半を父が執刀、その後30年位のものは私が執刀か、指導したものである。今までに、万の単位の手術を行ったと思う。私の財産である。20180919183722.JPG

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その10

『松陰は国を憂い、欧米列強による侵略、日本の消滅を危惧し、国を担う人材育成に渾身の意欲を込めて、松下村塾を創った。スケールや次元は違うが、私は昨今の極端な専門医教育の結果生まれた弊害と医師としての在り方や気概の欠如、萎縮する心を憂いている。

 花仁塾の入塾資格は「志(こころざし)を持つ人」である。

 私のような未熟者が、偉そうなことは言えないのであるが、幾つか『今の若い人』に歯がゆさを感じることがある。

サミュエルウルマンの「青春」という詩がある。マッカーサー始め、多くの政治、経済界のリーダー達が座右の銘とした詩で、私も大好きである。「青春とは人生のある時期をいうのではなく心の持ち方を言う。逞しき意志、豊かな想像力、燃ゆる情熱・・・安易を振り捨てる冒険心をさす。歳を重ねるだけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。六十であろうと十六であろうと人の胸には驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探求心・・・を持つことができる」で始まる。言ってみれば高齢者を励ます詩である。が、しかしである、私は『今の若い人』にこれらの若さの条件をあまり感じることがない。松陰は「諸君、狂いたまえ」と言った。私は「若さは馬鹿さ、馬鹿さは若さ」と思うのである。また、人のことは言えないが、視野の狭さ、労を惜しむ風潮も気になることの一つである。こういう自分の考えを少しでも伝えたいと思うのは私の思い上がりであろうか。「地域でしか良い医者は生まれない」は言い過ぎかもしれないが、若手医師の教育を、私の最後のライフワークにしようと思っている。20180914183250.JPG

 平成292017)年4月 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消

するにはー」のセクションで『研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医

療の役割』と言う演題でお話しした。当院で地域医療を学んだ初期研修医達が

研修後、都市(大学病院)と地方(地域病院)の違いをどのように感じたか?

を取り上げた。そこから格差というより、若手医師の教育には、都市と地域の

お互いが補填し合うこと、それぞれを循環すること、早い時期から地域医療を

知ることが重要と指摘した。当院の指導方針と研修医たちが感じた事柄は別に記しておく。大学等の指導陣へも多少のインパクトはあったと思っている』20180914183336.jpg

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!


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その9

『研修医との付き合いの中で考え続けた。そして、一応の結論を得た。私の医師としての最終章の仕事を見つけた気がしている。それは残さなければならないものを、次代に伝えることである。

そんな訳で、平成27101日、私は吉田松陰にかぶれ、松下村塾ならぬ、「花仁塾」を作った。20180907151431.jpg

同年11月、埼玉医科大学主催の厚生労働省の臨床研修医指導者講習会に参加した。現在の若手医師教育の実際を自分の目で見てみたいと思った。部外者・高齢者は私一人であった。これほど疲れた講習会は初めてであった。WS(ワークショップ)GIOOSCESEATF等の限りない英字略語を理解するだけで疲れた。そして私の教育にはこれしかないと思った。

「やって見せ、見せてやらせて、させて見て、ほめてやらねば人は動かじ」「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず」「やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」連合艦隊司令長官 山本五十六の言葉である。

『時代は変わったとか、古いとか、文句のある奴は勝手にほざけ。私は、医療は70%は進化し30%は変わらないか、むしろ退化した』と思っている。

ここ数年の私の医者としてのエネルギーはここにある。強烈な違和感と腹立たしさが「花仁塾」の根源である。㊾

さて、この30%の「まとめ」を書き留めて置きたい。

『今の若手医師教育に物申したい。極端な専門志向、縦割り、先進のみを追いかけ基本教育の欠如、臓器を見て全身を診ず、病気を見ても人を診ず、なんでも鏡視下手術、開腹も手縫いも糸結びも出来ない外科医、挿管も蘇生術も出来ない医者、訴訟が怖いから専門外は見ない方が良いと教育する指導医。医療の本質の喪失』と思うのである。『少なくとも一人の医師の守備範囲は極めて縮小、基本的考え方・手技は極端に退化し、結果、非効率で不必要な時間と労力、材料が必要となり、医療費は高騰を続けて行く』細かい様だがこれも指摘しなければ気持ちが晴れない。清潔と不潔の意識の欠如である。何もしないのにまず滅菌していないゴム手袋、その不潔ゴム手袋でカストに手を突っ込んだのを見たとき、腹部の診察でゴム手袋をして触診をしたのを見た時は唖然とした。なるほど自己の感染防止には必要であろうが、認識違いも甚だしい。創処置に際し、セッシやペアンで清潔ガーゼを掴む事は、今は無いらしい。何でも不潔ゴム手袋でワシ掴みである。視点は違うが、資源の無駄などには全く興味が無いのであろうか。どんな教えを受けているのか、腹立たしくさえある。自然とこれらの道具の扱いも上達しない。

EBMという決まり文句の影で、忘れさられて消えて行く残すべきものは少なくない』㊹50

 

㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」

㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」

5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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今回からは同じく130周年記念誌の中の「私の20年」の中から、当院で初期研修への思いと若手医師の教育に対して私の思うところを紹介する。

 

その8

『平成162004)年、臨床研修制度が発足し、平成17年度より最初の初期研修医が来てから、すでに13年になる。若い奴との付き合いは結構面白い。もうすでに140名を超える研修医と付き合っている。彼らから学んだものが多くある。学んだと言うより驚嘆させられたと言った方が良いかも知れない。「アッペて開腹するんですね。こんなにすぐ終わるんですか。ルンバールで手術が出来るんですね」彼らの驚きは私の学びでもあった。これは時代が変わったではすまされないと思った。「今の医師教育はどうなっているんだ」と正直腹が立った。

ここ数年私は怒ってばかりいる。

私は自分を学研肌とは思っていないし、まずそれは無理であるが、探究心と冒険心は持っているつもりである。以前より多少の学会発表や駄文を投稿してはいたが、近年は学会に参加することがやや多くなった。「私は古いのであろうか」を確かめるために、他を見てみたくなって、学会や講習会に参加した。

平成274月、第115回日本外科学会定期学術集会のディベートセクション・アッペ、ヘルニアの『腹腔鏡vs開腹』の会場で、我慢できずに手を上げた。それぞれを「良し」と主張する二人の演者の対決方式である。納得できたこと、嚙み合わないこと、呆れたことが交錯したが、実感は「若い異次元の医師集団がなんだか勝手に騒いでいる」感じであった。急性虫垂炎の手術時期について、腹腔鏡支持派は膿瘍形成のような虫垂炎の場合、まず抗菌剤治療を行い、炎症が落ち着いてより腹腔鏡下手術を行うという。これをインターバルアッペンデクトミーと言うのでそうだ。ディスカッションは若手医師の教育におよび、双方とも視野の優位性を主張していた。最後に司会者より「フロアーからの発言はありますか」「フロアーには看護婦さんと二人でアッペをやっていた時代の先生方もおられると思いますが」との誘いに堪えられなくなった。以下の発言をした。「先ほどより興味深く拝聴させて頂きましたが、ディベートですので申し上げます。手術とはその字の通り、手で行うものです。診断においても、手の感覚、触診は重要です。手は精密なセンサーであります。また、指はメスであり、鉗子であり、手の平は鈎ともなる。私は組織に手、指先で触れてこそ手術が出来ると思っています。視覚のみならず、触覚も重要です。是非とも特に若手医師の教育にはお忘れなき様お願いします」

何を馬鹿なことを言っているんだと思って聞いていたので、結構気合は入っていた。会場は一瞬シーンとしてしまった。㊾

同年6月、第40 回日本外科系連合学会学術集会のシンポジウム・外科医を取り巻く社会的問題のセクションでシンポジストとして「極端な専門医志向の弊害と対策 地域病院の役割」というお話した。内容は最近の大学病院等の若手医師教育と風潮への批判と教育における地域病院の役割を指摘したものである』

㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR'Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」

㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワーク

㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)

 

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


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その7

『その3日後である。

平成232011)年311日 東日本大震災が起きた。

その時、私は新しい院長室にいた。そしてこう思った「なんだ、3日天下だったか」思わず、引きつった不謹慎な笑いが出た。

移転した地は荒川の河川敷に盛り土した土地であった。病院ごと崩れると思ったのである

停電、電子機器全てストップ、自家発電機作動、しかし、大きな問題は起きなかった。患者さん達を病棟の南側に移し、帰途についたのは午前3時、公園橋から見た真っ暗な街は幻想的であった。

 

病院移転に関わった全ての人たちが好意的であった。同級生はもちろん、栗原稔前市長、久喜邦康現市長はじめ、市、県、国の行政の方々、地権者の方々や地元の方々に多大なご支援を頂いた。特に、山根、内田、平野氏ら高校の友人の力がなかったら移転は出来なかったに違いない。奥村組と田口設計、地元業者の方々は採算を度外視し、私の期待以上の素晴らしい病院を作ってくれた。

ヘリポート併設の病院らしくない急性期病院、木造平屋病棟、患者・職員とも和む環境、そして人が集まる病院である。

株式会社ベルクの故原島功氏からはヘリポート建設に対し多大なご寄付を賜った。秩父臨床医学研究所長の栗原俊雄氏にも、さらに秩父正峰会理事長の吉田廣文氏や山根益男氏には記念樹を頂いた。改めて心より感謝申し上げる次第である。

旧病院は秩父神社のご加護のもと、その隣、宮側町の地で120年以上続いて来たのであるが、移転に際し、薗田稔宮司様よりお許しを頂き、敷地内、ヘリポートに隣接して御社「秩父妙見社」に鎮座頂いた。本当に有難いことである。また、秩父神社の「北辰の梟」にちなみ、ご神木の銀杏の木で作った梟と少女像を待合室の梁に据えた。病院と患者さん達に変わらぬご加護があらんことを祈りたい。

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当院は補助金と言う国民の税金と多くの方々のご好意とご苦労を頂いたことに一点も恥じることはない仕事を続けて来たと自負している。そして、今後も堂々とそれに恥じない貢献をして行きたいと、創立130周年を迎えた今、改めて肝に命じたいと思う』

今回はこれくらいで良かろうかい  チェストー!!!

 


プロフィール
秩父病院院長 花輪 峰夫

秩父病院院長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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