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花輪理事長の独り言

花輪の独り言(第三報)

3年ぶりに新入職員の歓迎会ができました。コロナ禍の閉塞感を払拭しました。公園橋下、

Chichibu farm stayというオートキャンプ場で、バーベキューケータリングパーティー、

(TEXAS SMOKING BRREL)をやりました。

皆の心がけが良かったためか?コロナと戦ったご褒美か?梅雨の長雨がピタッと止み、晴れました。しかし、午後に雷雨・大雨となりました。それでも、我々は少しも慌てません。1年前のワクチン1000人接種プロジェクトでの同じ状況を思い出しました。経験者はテントの支柱を抑え、あの時は、ワクチンを、今回は素晴らしい料理を、完璧に守り抜きました。その後天気は急速に回復し快晴となり、久しぶりの解放感の中で、気持ちよく飲み、喰いました。これが普通なのです。おかしな世界からは、もうさよならしましょう。

ぜひfecebookもご覧ください。

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花輪の独り言。第二報

東海道の旅の終わりころ、病院から電話が入り『毎日新聞から取材の依頼が来ています。地域への医師派遣について』とのこと。貧乏性なのでしょうか、帰った後に予定ができたことにホッとしました。連休明けのある日、取材を受けましたが、順天堂大学病院の県南地域への誘致についての取材でした。誘致の条件の一つが『県内の医師不足地域への医師派遣』とのこと。そんなこと、初めて知りました。現場が全く知らないところで勝手に何か動いている、少し腹が立ちました。多分、県は『私どものような民間病院』には情報を出さないのでしょう

院長室の片付けをしていて、すっかり忘れていた一枚の書類が目にとまりました。『秩父群市医師会長立候補辞退届け』です。そこに何故再び立候補したのか、その理由が書いてありました。それは医師として、あるいは医師会の役員、医師会長として四半世紀取り組み、出来なかった、やり残した事『進行癌の撲滅と、地域を担う医師の確保』をやりたい、と書いていました。『なんだ、今考えていることと全く同じじゃないか。俺って全く進歩しないんだ』と自分でも笑ってしまいました。3年前と今年の秩父医療協議会でも、『医師確保、埼玉県医師育成奨学金の返還免除要件の不平等』について進言しています。3年前の協議会では、秩父医療協議会名で、県等に要望書の提出を要請しましたが、却下されています。今年は再度の要請を申し出ています。

 

医者を卒業した私は、そんなことはすっかり忘れていました。東海道の旅もそんなことを忘れるためのものでもありました。しかし、毎日新聞のインタビューがくすぶっていた私の心に火を付けました。おさまっていた腹の虫が動き出しました。今後の私の生き方、多少残っているエネルギーの使い方が少し見えてきました。

 

現在、私は、埼玉県保健医療部や県医師会に、私なりの考えをお話ししています。

埼玉県は全国的に見て人口10万人あたりの医師数が全国最低です。その中で地域格差、つまり埼玉県の北部、利根地域、そして我々の西部(秩父)は極端な医師不足地域です。

埼玉県ではこれら地域格差を解消するため、いくつかの施策を行っています。

その一つが埼玉県医師育成奨学金制度です。この制度は『将来医師として埼玉県の地域医療に貢献したい』と考えている「埼玉県出身の医学生(県外医学生奨学金)」や「指定大学の医学生(地域枠医学生奨学金)」に奨学金を貸与しています。

私は素晴らしい施策であると思います。

しかし私がどうしても許せないのは、『この奨学金の返還が免除されるためには、特定地域(医師不足地域)の公的医療機関に勤務しなければならない』と言うことです。『民間病院での勤務は返還免除の対象にならない』のです。今時、こんな時代錯誤の差別があって良いのでしょうか。これは私が一貫して言い続けていることです。

行政の言い分は『公的病院が不採算医療をはじめ地域の中核を担う医療機関としてその役割を与えられているためです』とのこと。『役割=義務を与えられている』のであれば、その通りであります。そもそも、医療は営利を目的とするものではありません。行政の言う不採算医療とは、例えば無医地区の医療などを言うのでしょうが、救急医療、災害時の医療、今回の新型コロナ感染症に対する検査、発熱外来診療や感染者に対する入院治療等も、私はこの範疇に含まれると考えます。不採算医療は公的病院のみが担っているわけでは決してありません。

それでは中核病院とはどのような病院を指すのでしょうか?公的病院はすべからく中核病院でありましょうか?

この奨学金制度の本来の目的は医師不足地域の医師確保、不足診療科の医師の確保であると承知しています。

重要なことが忘れられています。それは奨学金対象者の心情、希望を含めた状況を知ること。同時に、勤務先の地域医療の実情を知ること。さらに、奨学金免除指定病院の医療内容、学会修練施設等の有無の把握であります。魅力ない病院、地域には人材は集まりません。当事者達を置き去りにした施策は意味がありません。私は『若手医師にとって魅力のある病院とは継続的に専門性のある指導医がいること。各学会の専門医資格のキャリアを取得できること』が指定病院の条件と考えます。それがすなわち中核病院であると考えます。

私はこのことを広く訴え続けてまいります。目的達成を拒むような『条例』であれば変える必要があります。今、埼玉県医師会では医師の地域偏在を無くす施策が進んでいるようです。

県医師会、埼玉県医療審議会、埼玉県議会での十分な議論を期待します。

 


花輪の独り言・第一報

令和4年(2022年)4月1日(エイプリルフール)、東海道五十三次徒歩一人旅に出かけました。

50年以上やってきた医者。私は今までに、60歳、65歳、70歳になった時、周囲に医者を辞める、辞めると言い続けて来ました。東京オリンピックの開催が決定した時、今度こそと思い『東京オリンピックが終わったら医者を辞める』とスタッフ達に広言しました。オリンピックはコロナで1年延期となり、加えてコロナ対策のため、私の辞任も伸びました。

それでも外科医の仕事、特に手術への執着は簡単には振り払えずにいました。今まで、手術のない自分は考えられませんでした。勿論、手術は今でも十分にできます。しかし、一方で、術後の患者さんの容態に自分の気持ちが100%左右されることに耐える気力は失せつつありました。精神的に臨床外科医としての限界を感じて来ていました。余力のあるうちに次の何かを見つけたいとも思いました。なんでも良い、私には区切りが必要と思いました。そして自分の今の体力を知る何かに挑戦してみたいと考えました。

そして、昔の人が普通に歩いた道を歩くことにしました。

仕事からの解放と未練の狭間で、自分では『医者の卒業旅行』かつ『次の生き方を探る旅』と位置づけ東海道を歩くことにしました。

多少の準備として自転車での札所巡り、病院への徒歩通勤、メディカルフィットネスでの訓練をやりましたが、1日せいぜい15キロがやっとでした。ダメならすぐ止めることも考え、エイプリルフールの出発としました。私に取って、リスクという点では山や海・空から比べれば問題ないことです。

4月1日 東京に住む長女と孫、犬のポンタに見送られ、日本橋を出発しました。

この時はダウンジャケットの上に雨合羽上下の出で立ちでした。悪戦苦闘、辛くも面白い、我慢、我慢の旅でした。初めて体験、コロナの災い、腹の立つこと、戸惑うこと、嬉しかったこと、勉強になったこと、自分を含めバカじゃないかと思ったこと、磯部餅と甘酒がこんなにうまかったことに気づいたこと、雨の中ただ黙々と歩きゾーン(ある世界)に入りそうになり、顔の雫が涙か雨か?分からなくなったこと、外科医としてウクライナまたはモスクワに行こうと思ったこと。

結局28日間、2日は停滞したので、26日で637キロ、1日平均24、5キロ歩きました。

この経過はフェイスブックに逐一アップしました。驚くほど多くの人たちが見てくれていて、声援を送ってくれました。(詳細はFBをご覧ください)

途中棄権はあり得ませんでした。意地というと少し違うが、『昔の人は草鞋で歩いたのに』が常に頭の中にありました。しかも、もっと早く。東海道、2週間で歩いたそうです。(こんなに多くの人達に声援されては、途中棄権を出来るはずはありません)

京都三条大橋に着いた時、特別な感情・感慨は全くなし。不思議です。

今後の人生の生き方全く見えず。これも残念でした。

京都でゆっくりなんて言う感覚は全く浮かばず、修学旅行の中学生で賑わう中、タクシーを止め、一目散で京都駅、新幹線は東京駅までなんと2時間14分、味も素っ気もなし。

秩父に帰り10日間位は温泉、マッサージ等で休養、その後、1週間のシングルハンドヨットクルーズと釣り、こんなにゆったりしたことはなかった。

その後、朝起きて、なにもやらなくて良いことに『なんて良いもんだ』と感じました。釣ってきた魚をさばいたり、孫のピアノ発表会を見に行ったり、ドリカムのミューズパークのコンサートを歩いて下見したり。

しばらくすると、何かにつけ、やたらと腹が立つようになりました。やることがないのには参りました。腰が痛いのに、遠くまでわざわざ歩いたり、皆野の温泉まで歩いたり。

朝起きて、犬の散歩以外にやることがないのは、苦痛でしかなくなりました。

この旅の最中には全く気付かなかったことが、今はっきりと分かって来ました。私には以前のような体力はもうありませんが、『頑張ること、我慢すること』はまだ出来ることが分かりました。一歩でも前に進めば、必ず目的の宿に付くことも改めて体験しました。予定がないこと、目的・目標がないことは苦しい。これがないと、多分、生きて行けないと思うようになりました。

振り返って、どんなにマメが痛くても、どんなにふくらはぎが痛くても、明日は前に進み、遅くても歩き、目的地まで辿り着くという目標がある旅は充実していたと、あの旅、あの、ただただ歩いていた時間が懐かしい、恋しいと思うようになりました。

この旅を経験し、私自身が見えたことが、最高の収穫でありました。

私にはまだやらなければならないことが沢山あるようです。今後は、多少は残っているエネルギーを、手術や診療の代わりに『秩父地域の進行がん撲滅・健康寿命の延長・地域を担う若手医師の確保と教育』のシステム作りに半分くらい、残りは『自然との戯れ』に使いたいと思っています。 (*手術はやります、まだ外科医ですから)

 

次回からは、これからの私の取り組み・システム作りの「独り言」をつぶやきます。

 

 


院長ブログ・最終

私、花輪峰夫は2022年3月をもって秩父病院院長を退任いたしました。半世紀にわたり、臨床外科医・救急医として、秩父地域の医療に誠心誠意取り組んでしてまいりました。

この間、様々な方々にご支援頂いたことに心より感謝申し上げます。

当院の職員より心に響く言葉とプレゼントを頂きました。最高のスタッフに支えられ、今あることを感謝しています。

今後しばらくは理事長として病院運営に専念しますが、後進への指導は引き続き行ってまいる所存です。

秩父病院は、坂井新院長以下、全スタッフが『秩父地域の医療を担う』と言う気概をもってさらに努力してまいりますので、引き続きご支援の程、宜しくお願い申し上げます。

次回からは、このコーナーは『花輪の独り言』といたします。

 


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プロフィール
秩父病院理事長 花輪 峰夫

秩父病院理事長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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