花輪理事長の独り言
10月14日(日曜日)、巴川オートキャンプ場で職員・家族、研修医・OBが集まり本場のバーベキューを味わいました。
幸い曇りがちではありましたが、時折☀もさし、子供達も存分に遊び、腹いっぱい食べました。リブステーキ、サーロインステーキ、若鳥の蒸し焼き、鹿肉ソーセージ、巨大サラダ、その他、数えきれない料理、最後に肉汁たっぷりハンバーガー。ともかく総て美味しかったです。森田さん、キャリーさん有難うございました。
また来春にやりたいと思います。さらに多くの参加を期待します。
10月初旬の連休に台風をやり過ごし、松崎クルーズに行ってきました。今回は母校の研修医でヨット部OBと当院スタッフを連れて、クルーザーの醍醐味を味わってもらいました。
風速20メーター位吹きましたが、苦労した後は凪です。
二次救急医療体制 その2
平成30年7月4日のこのブロブに当院の夜間二次救急医療体制について、「段階的に縮小して行く方針である」という今後の方針を書きました。
今回は改めてその経緯と趣旨・理由を書き留めて置きたいと思います。
1、平成29年4月1日 院長ブログ に救急医療に対する今後の当院の方針として、
来年度(平成30年度)より段階的に縮小させて頂きたい旨と公的病院の役割について書きました。
2、平成29年9月 9月の秩父市報に同様の内容を書きました。(これはブログに紹介済)
3、平成30年4月23日 医師会長、広域の長である秩父市長に、当初の予定を1年延期し、平成31年度より、『日曜昼間、日曜夜間の救急担当辞退』したい旨、文章で通知しました。
4、平成30年7月4日 院長ブログ 130周年記念誌の20年を振り返って:当院の基本方針の中で、当院の夜間・日曜の二次救急診療を段階的に縮小する趣旨と理由を書きました。
5、今回(平成30年10月)、熟慮の末、下記の文章を医師会長および秩父市長あてに通知しました
救急担当辞退内容の変更について
時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、平成30年4月23日付で平成31年度の救急担当について、日曜昼間と日曜夜間の担当辞退をお願いしていた所ですが、諸事情を鑑み、平成31年度は現状通り行い、平成32年度の救急担当については日曜昼間と日曜夜間及び土曜夜間の担当を辞退したくここに通知させて頂きます。
私共が平成29年4月に救急担当の段階的縮小を表明してより、1年半が経過しました。平成32年度でまる3年となります。今後の1年半の間に、当地域の対処不能症例に対する対策と、より広域の医療連携システムの構築がなされる事を期待したいと考えます。ご理解の程、宜しくお願い致します。
医療法人花仁会 秩父病院院長 花輪
平成29年4月に私共が当院の夜間・日曜の二次救急診療の段階的縮小を表明してより1年半が経過しました。この間上記したように、機会をとらえて、「あくまで患者の立場に立ち、当地域のあるべき二次救急体制の見直し」について発信してきましたが、私が期待する前向きな対策は何一つ成されておりません。
今回の変更通知の意味は、平成32年度までの、さらに約1年半の間に、地域で困難な疾患・症例の二次から三次救急医療がより円滑に成されるような体制の構築を期待し、関係者全員の危機感と本気度・気概を喚起することが目的であります。全国標準の医療が為されない地域には、誰も住みたいとは思わないでありましょう。
もちろん私共も ①自院の機能の向上 ②さらに多くの高次医療機関と円滑な連携 ③画像転送や迅速な情報提供 ④救急担当医師の派遣依頼と人員交流 ⑤ヘリ搬送のさらなる有効利用等に努めて行きます。
早速、来る平成30年11月19日には、「秩父病院創立130周年記念医療連携会」を開催します。多くの高次医療機関の医療連携室の方々および医療福祉部会の市議会議員様にもご案内を差し上げております。この中で、当地域の救急医療の現状をご理解頂き、議論が深まることを期待しています。
現段階で、具体的に私の頭の中にあることは以下のものです。
1、まず現状を認識し、患者の立場に立って当地の救急医療を考えること。(当地には小児二次救急施設・脳梗塞対処病院がないこと、年間600件を優に超える管外搬送があること。産科施設・二次救急病院の減少、急激な医療の進化により高度医療が日常的に行われるようになり、相対的に対処不能症例が増加している事、それに伴い患者・家族の要望も変化していること、等々)
2、秩父市立病院の救急医療体制の充実(地域中核病院たる専門医療の整備。せめて脳梗塞に対するTPA治療が出来る体制の整備等、将来的目標、ビジョンを立てる)
3、当地域が医師不足地域かつ準医療過疎であることを踏まえ、より広域的救急医療体制の構築(すでに全県下で整備された脳梗塞にたいする収容病院群体制に加え、同様に急性心筋梗塞等にたいする体制整備)等に対し、当地域の行政、医師会その他医療関係者が積極的に関与し、県、国に対して要請すること。
4、その他、医師確保のための既成概念に囚われない実効性のある対策等、一歩踏み出すことを期待するものです。
その14
『さて、怒ってばかりいること、人に自分流を押し付けることは、年を取ったことの証拠である。「今の若い者は」と言う言葉は山本五十六長官も「禁句」と言っている。
彼はこうも言っている「苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である」
私はそろそろ耐用年数が切れかかっていることも、馬鹿さも若さもなくなりつつあることも自覚している。
振り返って、医者になってからここに至るまで、医師、病院の院長・理事長として私を支配して来た観念は『我慢』であった。㊸
孔子の言う「70歳の従心」は、私には到底無理である。こらえ性の無い私が、どうにかこの病院を維持して来たことが出来たのは、当然のことながら、周囲の支えがあったからである。
妻の支え、両親、子供達や孫という家族の存在があった。多くの人との触れ合い、友情、援助があった。平成30年7月現在、長女(福田千衣里)は秩父に孫(光志14歳)と住んでいる。次女夫婦(長谷川義朗・小百合)は私の自宅に隣接して家があり、二人の孫(さら5歳、慎之介1歳半)と暮らしている。長男(洋介)は実家に住み、この4月より歯科医師として秩父病院の勤務が始まった。3人の子供達と孫までもが、すぐ近くにいる。しかも、義理の息子を含む全員の子供達が秩父病院で医師、歯科医師として働いているのである。私にとってこれ以上の心の支えが他にあろうか。感謝しかない。
加えて、私の特技、「オンとオフの切り替え」がこれを可能にしたと思っている。この20年間、私が健康を保てたのは、犬達のお陰である。レオはレオンベルガーという犬種で、体重は85キロあった。一度座り込んだらテコでも動かなかった。6歳で前足に骨肉腫ができ、大手術と化学療法を行ったが、逝ってしまった。ジャックはゴールデンレドリバーとしては破格に大きく、その引っ張り方は強烈である。ポン太はフレンチブルで中型犬であるが、ダッシュ力は半端ではない。彼らたちとの毎日のミューズパークまでの散歩は私の足腰を保っている。本当にピュアーで可愛い奴らである。ジャックは新病院開院の年、生後3ヶ月で我が家にやって来た。従って、新病院と同じ年を重ねている。㉟
私は110記念誌に私はこう書いている。「25年間、私は常に走っていた。時には全力で、時にはフラフラと、時には立ち止まりたくなったり、リタイヤしたくなったが、振り返らずともかく走っていた。気持ちよく走ったこともあるが、どういう訳かゆったりと走った記憶がない・・・・どこまで走り続けることができるのか、正直言って私には自身がない。しかし、今までのような走り方でなく、もっとゆったりと踵を地につけて、大勢で励まし合いながら一歩ずつでも前に進むことができれば、どうにかこの小さな病院の歴史の中の自分の分担区間の次への中継点まではたどり着けそうな気がしている」と。今私は130周年記念誌の一ページをかきながら思う。「そうだよ、ゆったりとではなかったけれど、多くの人たちに支えられて、もう少しのところまで来たよ」「好きなことを好きなようにやって来ただけ」
孔子の言葉は、総てにおいて当てはまらなかったこれまでの私であるが、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」正にそう思う。
しかし、幸か不幸か、欲深く未熟な私には、未だ自分の道が見えない』
私の文献索引
① 昭和58(1983)年3月25日発行 医師会誌第2号「夢遊病者」
② 昭和60(1985)年10月30日発行 医師会誌第6号 「小笠原航クルージング航海記」(昭和60年6月5日~6月31日)
③ 平成元(1989)年7月10日発行 外科医会15周年記念誌「南の島の落とし物」(昭和61年 ヤップ島クルージング)
④平成元(1989)年10月6日発行 医師会誌第13号「イワナの話」
⑤平成3(1991)年7月1日発行 医師会誌第15号「ある日の夢」
⑥平成5(1993)年6月15日発刊 医師会誌第18号「福島先生へ」「親善ソフトボール大会」
⑦平成5(1993)年12月13日発刊 医師会誌第19号「夜明け考」
⑧平成6(1994)年7月15日発行 秩父外科医会20周年記念誌「水槽小話」
⑨平成6(1994)年8月5日発行 医師会誌第20号、「イルカからのメッセージ」
⑩平成9年(1997)年11月3日発刊 「秩父病院・百十周年記念誌」
⑪ 平成10(1998)年3月8日発刊 医師会誌第25号「第6回医療関係団体親善ソフトボール大会」
⑫平成11年(1999)年10月1日発行 秩父外科医会25周年記念誌「98年『喜望峰Ⅱ』クルージング」
⑬ 平成13(2001)年10月1日発行 医師会誌第30号 「岩田充先生を偲んで」「三上哲先生を偲んで」
⑭平成14(2002)年9月1日発行 医師会誌第31号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その1)」
⑮平成15(2003)年6月1日発行 医師会誌第32号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その2)」
⑯平成16(2004)年3月1日発行 医師会誌第33号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その3)」
⑰平成16(2004)年12月24日発刊 医師会誌第34号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その4)」―北前船の旅―」
⑱平成17(2005)年12月20日発行 医師会誌第35号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その5)―北海道の旅―」
⑲平成18(2006)年12月20日発行 医師会誌第36号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その6)-平成17年 秋 クルージング・帰航―」
⑳平成19(2007)年11月18日発行 医師会誌第37号「喜望峰Ⅱ日本一周クルージング(その7)ー突然の終焉、海と船への思いー」
*平成10(1998)年5月3日西伊豆松崎出航~平成17(2005)年10月14日に福島県のいわきサンマリーナに到着するまでの7年間の航海と回想を医師会誌に計7回にわたり連載させて頂いた。
㉑平成20(2008)年5月30日 連載を一冊にまとめた航海記発刊 「『喜望Ⅱ』私の日本一周クルージング航海記」
㉒平成16年(2004)年7月1日発行 秩父外科医会30周年記念誌「秩父外科医会30周年によせて」
㉓平成16(2004)年12月24日発行、医師会誌34号「父・花輪吉夫と整形外科」
㉔平成16(2004)年 埼玉県医師会雑誌661号「当院における胃切除後器械吻合(縫合)
㉕平成17(2005)年 埼玉県医学会雑誌第40巻第1号「幽門側亜全摘術における自動吻合器による再建(器械 吻合)の工夫」(第22回埼玉県外科集団会発表)
㉖平成18(2006)年、埼玉県医学会雑誌第40巻第2号「重積をきたし肛門外に脱出したS上結腸癌の1例(第23回埼玉県外科集団会発表)
㉗平成18(2006)年3月発行 埼玉県外科医会誌第25号 談話室「『知床』世界自然遺産に思う」
㉘平成19(2007)年3月発行 埼玉県外科医会誌第26号 挨拶「自己紹介」
㉙平成19(2007)年9月 消化器外科第30巻10号 通巻第375号 症例報告 ヘルス出版「食道胃、食道空腸吻合におけるダブルステイプリングテクニック『金属ワイヤー法』の経験」
㉚平成20(2008)年10月30日発行 日本外科系連合会誌第33巻5号「食道浸潤噴門癌に対し、左開胸開腹下にdouble stapling technique(DST)-金属ワイヤー法―にて食道胃吻合を施行した1例」
㉛平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号・群像2008「還暦外科医の呟き」
㉜平成20(2008)年11月5日発行 医師会誌第38号別冊 巻頭あいさつ「看護専門学校創立10周年を迎えて」
㉝平成21(2009 )年2月20日 秩父地域医療についての提言(20年度秩父地域医療協議会)
㉞平成21(2009)年10月 埼玉大学医療連携会で講演 「防災ヘリによる早朝夜間ドクターヘリ的運航の現状」
㉟平成21(2009)年12月25日発行 医師会誌39号「あいつの思い出」「ドクターヘリについての私見」
㊱平成22(2010)年12月25日発行 医師会誌40号 会長「はじめに」「分水嶺」「肉が大好き(草食系・肉食系)」
㊲平成22(2010)年12月31日発行 秩父外科医会35周年記念誌「アラ還の意地と欲」
㊳平成23(2011)年3月発行 埼玉県外科医会誌第30号 論説「地方病院の医師不足と専門医制度に思うこと」
㊴平成23(2011)年6月 埼玉医科大学医療連携会で講演 「秩父地域の災害・救急医療」
㊵平成23(2011)年12月25日発行、医師会誌第41号 会長「はじめに」「3・11その時あなたは」
㊶平成24(2012)年12月 MediCon.医療の最前線『秩父の山々に囲まれた緑豊かな「結界」」
㊷平成25(2013)年7月 DOCTORAES 郡市区医師会の現場を見てみよう
㊸平成25(2013)年12月25日発刊、医師会誌43号「『もういいかい』と『まあだだよ』のはざまで」
㊹平成26(2014)年1月発行 埼玉県外科医会誌 第33号、論説「地域医療を支えるための当院の取り組み」 談話室「地方外科医のボヤキ・嘆き・呟き」
㊺平成26(2014)11月 日本の元気な病院&クリニック 開放病床とオープンシステムで地域全体の」「総合病院化」を図る
㊻平成26年(2014)年12月号 DOCTOR’Smagagin「総合医養成こそ地域病院の使命だ」
㊼平成27年(2015)年3月発刊 埼玉県外科医会誌第34号 学術講演会 「第
29回埼玉県外科医会学術講演会」 談話室「夢の空中散歩」
㊽平成27(2015)年9月5日発行 秩父外科医会40周年記念誌「私の5年誌・病院移転から今」「極端な専門医志向の弊害と対策」(第40回日本外科系連合学会学術集会発表内容)「第29回埼玉県外科学会 学術集会(平成26年3月8日・秩父)
㊾平成27(2015)年12月25日、医師会誌45号、「定期学術集会に参加して思ったこと(特にアッペ・ヘルニアの腹腔鏡下手術と今後の私のライフワークについて)
㊿平成29(2017)年4月28日受付、日本外科学会雑誌 第119巻 第1号:92‐94、201 第117回日本外科学会定期学術集会 特別企画(5)「今こそ地域医療を考えるー都市と地方の外科医療と外科教育の格差を解消するにはー」
5、研修医の視点に学ぶ格差解消への模索と地域医療の役割
51 平成29(2017)」年 インターネットサイトm3.com
Vol.1 夢見た地域完結の医療「今は無力感と脱力感」
Vol.2 「総合医の養成」は地域病院の使命
52 平成29年(2017)年 秩父市報 9月号
秩父の医療現場から 「救急医療の現状の課題と将来について」
私の意固地な考えと愚痴、自身への叱咤激励と多少の期待、「私の20年」は遺言のようなものになってしまい、文献(駄文)の集積は私の遺稿集の準備の様相となってしまった。
私はそれで良しと思っている。もう我慢はしたくないと思う今日この頃である
その13
『病院を建築中、ほとんど毎日、現場を見に行った。すると、ブーンという音に空を見上げると何かが飛んでいるのに気づくことが多くなった。モーターパラセールである。ゆったりと大空を漂っている。実に気持ちよさそうである。以前より気になってはいたが「誰が、どこから、どのように飛んでいるのであろうか」が無性に気になり始めていた。
誰しも子供の頃に空を飛んだ夢を見たであろう。私も幼少期にこんな夢をみた。それは必ず同じ夢で、秩父神社と自宅の間にある道を、両手を広げ全速力で駆けると、浮き上がるというものである。高さは1mか2mで、それ以上は上がらず飛ぶと言うほどではないので、もしかしたら本当に出来るのではないかと感じられ、この夢を見た時には必ず飛び起きてこれをやってみた。その度にいつも裏切られたが、もっと早く走れれば浮き上がるだろうと思って、あまりがっかりもしなかったように思う。「何時かは飛べるかも知れない」子供の夢はそんなもの、可能性に満ちている。
新病院の完成後、私は熊谷のモーターパラスクールに入門、訓練を開始した。平成23(2011)年10月4日初講習、10月16日には朝霧高原に行き、初めてパラセールを体験した。タンデムといって、二人乗りの前の座席に乗り、ベテランのパイロットが空へ連れて行ってくれるのである。私は高所恐怖症ではないが、決して高いところに強くはない。
平成23(2011)年11月、4回目の練習で、初めて空を飛んだ。久々の感激であった。その時の撮ってもらった写真、自分でもこんなに嬉しそうな顔を見たことがない。
その後、平成24年の元旦、新病院の上を始めて飛んだ。子供の時の夢が63歳になって叶ったのである。しかも自宅と新病院の上空を飛べたのであるから、これ以上の贅沢な満足はない。正に天にも昇る気持ちであった。㊼
平成24年、病棟の北側の隣接地の一部を借り、蕎麦の栽培を始めた。収穫して天日干し、そこから先は当院の看護師さんのお父さんでプロのお蕎麦屋(三千乃家)さんに打ってもらう、自家製蕎麦である。病棟の窓から患者さんが楽しめる様に赤い花の蕎麦を植えたのが最初である。大沢勝太郎さんから今は、田中英生、斎藤陽子さんに引き継がれているが、正に精魂込めた逸品である。
これを年末から春先にかけて、当院が日頃からお世話になっている方々にお配りしている。心からの御礼のつもりである。当たり前であるが、喜ばれなかったことはない。実際に世界一美味しい。汗も魂も入っているのであるから。
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