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院長ブログ

日本医科大学スキー部創立50周年記念誌

記念誌作成に向けて、OB・現役、同門の全ての人たちにこの企画への参加をお願いしたいと思います。

今回の企画の趣旨を、総ての日本医科大学スキー部同門の皆様にご理解賜りたいと思い、個人的ブログに載せました。

ご寄稿・写真・資料の提供、ご寄付をお願いしたいと思います。

これはあくまで一スキー部OBとしての個人的文章・お願いでありますが、この企画を思い立った一人として、皆さんにお願いするのに一々口頭や手紙では大変です。「私のブログを見てください」との戦略です。ご理解頂きたいと思います。

 

平成31年1月私は久しぶりにスキー部の0B戦に参加した。多くの若い部員がいて実に盛況であった。

卒業後しばらくは、さすがに本業・外科医の修行に忙しくスキーをやる機会はなかった。それでも、30歳を過ぎる頃には、またスキーを始め、今度は深雪にハマり、妙高の関山に小さな山小屋を購入し、家族や仲間たちとスキーを楽しんでいた。

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スキー部のOB戦が何時頃から始まったか、私にははっきりとした記憶がないが、十数年前頃?から、石打で行われるOB戦に参加するようになった。以前は同世代や私より先輩の参加もあったが、残念ながら近年参加した2回のOB戦は私が一番年寄り、つまり最高学年で世代の違う少数の若い0Bだけとなってしまった。

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この写真は10年前、まだ鴇田先輩が元気であった頃のOB戦の前夜祭の時のものである。従って、なんとなく参加を見合わせるようになっていたが、今年は何人かのOBや多くの現役と一緒に大いに酒を飲み、大変盛り上がったのである。この時の様子は今年2月に、このブログに載せたのでご覧頂きたい。この時、現在の0B会長である中西一浩先生(S61卒・麻酔科)や斎藤糧三先生(H10卒)、そして同世代の後輩である中山康子先生(旧姓岩瀬・S49卒)等と楽しい時を過ごす中で、スキー部創設期の話、大会や辛かった合宿の話に花が咲き、同時に我がスキー部がすでに50年以上が過ぎたことに気づいたのである。そして実際にスキー部を創設した故・鴇田典夫先生達(S44卒)のご苦労と鴇田先生のスキー部に対する愛着にも改めて気付かされた。

今、記憶を記録として残さないとスキー部の歴史が消えてしまうと私は思った。あの懐かしいレースや合宿、スキーに明け暮れた生活、それぞれのスキーにかける思いが、総て過去のものとして忘れ去られてしまう。医学部のスキー部として、現役の学生達・若い医師達に伝わるべきものも消失してしまうと思った。自然と記念誌作成へと話は進んだ。当然の流れであったと思っている。

日本医科大学のスキー部は私が入学した予科1年生の時、つまり昭和41年に創部された。それ以前の何年間かは同好会の様なものであったようで、山岳部から独立したと聞いている。

現状報告

この企画はOB会長の中西先生を中心にOB会が主体となり、スキー部内に事務局を作り、実行して行くと理解しています。

現状はその準備段階で、原稿、資料の期限は今年(令和元年)12月末、発刊は来年(令和2年)春を目指したいと思っています。

私はすでに先輩後輩を含め、20名を超す、知っている限りの同門の先生方に電話でご協力をお願いしました。皆良い感触でした。

特に先輩方には口頭でこの企画の賛否を相談しましたが、全員が歓迎の意向でした。

大関正知先生(S44卒)は初代あるいは2代目のスキー部主将ですが、ご相談したところ、すぐに原稿を郵送して頂きました。題名は「日本医科大学スキー部創部顛末記」で当時の様子、ご苦労が詳細に綴られています。私はこの文章を貰ってしまって、後に引けないと痛感しました。

また、青森の川島信二先輩(S46卒)と同級(S47卒)の鈴木次夫先生は東日本・関東大会と合宿の場所、時期等を老脳に鞭打って、懸命に思い出し、連絡してくれました。もうほとんど原稿が完成しているのではないでしょうか?お疲れ様でした。

 

平成31年4月20日に東京麻布十番の齋藤先生のお店で最初の打ち合わせを行いました。

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参加者は小川研一先輩(S46卒)、鈴木次夫同級生(S47卒)、花輪(S47卒)、中西一浩OB会長(S61卒)、中山康子(49卒)、斎藤糧三(H10卒)、井上正章(H31卒)と現役主将、来期主将、来期主務の3人、計10人です。

いずれ近いうちに事務局より、OB 会と会長名で正式な連絡がされると思っています。その節は宜しくお願いします。是非同期世代にも声をかけて下さい。

 

以下の文は皆さんが少しでもその気になる様に、現時点での私の原稿の抜粋を載せます。

 

『まず、古い写真を捜してみた。スキー部の時の写真はなかなか見つからない。今年の5月の10連休の前半は仕事と写真探しで終わった。ついでに昭和初期の病院の写真が出てきたが、自分が滑っている写真、レースの写真は無いものである。病院の写真はホームページの院長室で秩父病院物語として連載することとした。本題のスキーの方は中学の時の写真と、かろうじて、スキー部の夏合宿の写真が出て来た。

私は5歳位からスキーを始めた。その頃のホームゲレンデは、あの川端康成の小説「雪国」の舞台となった越後湯沢である。

中略

そして日本医科大学入学、スキー部に入った。その時の様子を振り返って見る。入学後すぐに、市川の教室に1年先輩の黒川民男さん(スキー部と水泳部を兼ね、ヨット同好会・部を立ち上げた方)がクラブの勧誘に来た。「君、水泳部に入らない?」私は高校では水泳部の奴より平泳ぎでは早かったので、いつか神宮の屋外プールで泳いでみたいと思っていたので、すぐに快諾。「冬はスキーはどう、やったことある」と先輩。「ええ、まあと一応格好をつける」正直、「医学部のスキー部なんて」という自惚れはがあったが、当然喜んで入部した。

中略

私は、高校時代は山岳部に所属し、特別に冬はスキーを許されていた。高校2年の時、NHKのドギュメント番組、現代の映像という番組に我がクラブが取材を受けた。そのタイトルは「高校山岳部・しごき」であった。毎月トレーニング山行があり、ザック(キスリング)にブロックを積み込み30キロの重さを背負って山に登った。中央線から入り、東海道線に出るという、南アルプス全山縦走もやった。従って、今でもスキーが一番強かったのは高校時代であったと思っている。さて、スキー部での成績は自分の自信とは程遠いものであった。入賞はできたが、優勝は出来なかった。

中略

振り返って、スキー部での成績については、悔いが残るが、高校時代と比べ、たいしたトレーニングもせず、半分以上は他の趣味にエネルギーを費やしていたので、当然の結果であったと思う。負け惜しみであるが、せめて厳しいコーチが欲しかったと今更ながら思うのである。

中略

しかし、存分に学生時代を謳歌したと思っている。

関東、東日本のレースはもちろんであるが、春夏の合宿、仲間の骨折、大会に向かう途中の事故、等思い出せば切りがない。

中略

ともかく春・夏スキーができるところは、ほとんど行ったと思う。時期や順序は不明な点が多いが、そのうち発刊までには詳細が分かるであろう。でも私を含め、多少の認知が入っていてダメかも知れない。急がねばならないと思う(笑い)

中略

月山、乗鞍、鳥海山、立山(雷鳥沢)立山(剣沢)、八甲田、八方尾根には行ったと思う。私が主将の時の夏合宿は立山(剣沢)であった。後ろの山は剣岳である。この写真はたぶん夏合宿の下見に江尻一成君(S50卒)と立山を訪れた時のものである。

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この年の合宿所は劔沢小屋であった。室堂から雷鳥沢を上り詰めるのであるが、予想外に時間がかかった。遭難寸前?であった。部員は女子(中山先生)を含め、山登りは皆素人、小屋についたときはすでに真っ暗であった。10時間位はかかったか?板と竹のポールを背負って登った。ただ山形出身の仁科君(S51卒)は頼もしかった。そしてその夜、この小屋のかろうじて輪郭が映るテレビでアポロ11号の月面着陸を見たのである。従って1969年(昭和44年)7月20日、アメリカ東部夏時間の午後4時17分に剣沢小屋にいたことは間違い無いのである。

 

春合宿では鳥海山の「肩の小屋」に1週間閉じこもった。山女(やまじょ)のお姉さん?と小屋のご主人のおじいさん(多分おじさん)がいて、二人ともとても親切であった。午前1回、午後1回、頂上まで登り、一気に滑り降りた。

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毎日同じ顔を見、同じ飯を食った。最終日にはお姉さんが女の子となり、とても可愛く見えた。毎夜、彼女に教わった歌を歌った。

「ここのお山は日本一、出羽富士の名〜ある鳥海よー。肩の小屋より白糸見ればー、東に月山、蔵王山。峰の白雪、白雪や〜、夏でも消えやせぬ、夏でも消え~ぬー」まだ覚えていた。確か2番、3番もあったが、もう思い出せない。

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中略

私のスキー歴は六十数年、今も年に数回は滑っていて、私の生活には欠かせないものになっている。私からスキーを取ったら何が残るのだろうか?今では健康維持が最大の目的ではあり、シーズン初めに必ずノーストップで緩やかな長いコースを滑り、ブーツを脱がず、足の痛さを懸命に堪える。これができると又今年も滑ることができると自身で確信できる。私の生き方のモットーは「いつも冒険心を持つこと」しかし、本業の医療では不謹慎なので「チャレンジ」としている。いつまで続くことやら?

オリビアを聞きながら、ただただ長く大きく滑る。なんとも気持ちの良いものである。

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いつだったか、現役部員に尋ねたことがある。

シーハイル」て知っている?と。「いいえ」

我々はいつも最後に「日医―ファイト・ファイト、シーハイルシーハイルシーハイル」で締めたんだよと私は答えた。スキー万歳という意味である。Chiheil  ドイツ語らしい。

中略

フランスのアルペンレーサー・ジャンクロードキリー、オーストリアのトニーザイラー、いずれも回転、大回転、滑降のオリンピック3冠王であるが、もうそんなジャンルや種目別もなく、オールラウンドプレーヤーは存在しないようである。まるで最近の医療と同様、専門特化している。スキーの歴史もなかなか面白い。

最後に、現役部員の皆さんに一言。

スキーは歩ける限り一生できるスポーツです。全身運動なのが良い。健康維持には最適です。何より爽快でスリリング。そしてスキーには歴史と文化があります。現役の皆さんも自身の人生にスキーという彩りを加え、スキー文化を伝えて下さい。

そうそう、私にタイムレースで負けた選手は秩父病院に研修に来る約束、忘れないで下さいね。

今までに日本医大の研修医は百人近く当院に来ている。OB戦で私が勝った部員は2、30人はいるはずだが、スキー部OBで当院に来た研修医は飽本、井上の両君だけです。彼らは全然私より早かった(笑い)


プロフィール
秩父病院院長 花輪 峰夫

秩父病院院長 花輪 峰夫

人と人との触れ合い医療を実践し、患者さんから信頼され、スタッフが気概を持って、地域に貢献できる病院を目指します。

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