| 秩父に赴任して間もない、昭和12年の冬の頃だった。
札所二十三番音楽寺の前に茶店があり、此処に強盗が入って重態な負傷者が発生した。警防団数人が迎えに来られ、私の前後を護衛してくれる。「今山狩りをしているが未だ捕まらず、何時、何処に飛び出してくるか判らないから気をつけて下さい」と言う。
音楽寺は荒川を挟んで真西の方向に在り、直線距離にすれば1キロ位か、現代ならば救急車も数分程度で到達できるのであるが、その当時は下流遠く秩父橋を渡り、1時間近くかかったことと思う。勿論自動車の通れる道はない。
傷者は、茶店の主人で50歳位の男性、左眼は挫滅され前頭部複雑骨折だったが、全身状態は比較的元気であった。応急手当をし、警護団の護衛の下に帰院した。
珍しい外傷であり、予後も聞きたかったので早速、専門の平沢教授に電話した。「予後は良の見込」「眼球は早く摘出すること」の指示を得た。
事件当夜は患者さん夫妻と嫁サクさん、孫カツ子さんの4人が就寝していたのであるが、サクさん(現82歳)、カツ子さん(現60歳)のお二人から詳しい状況をうかがうことができた。
「雨戸をはずして侵入した犯人は、金槌を振りかざし主人の顔や頭を滅多打ちにし『金を出せ』と脅していた。側にいた気丈な奥さんが大声で一喝。『うちは息子が出征中で経済戦争中だ』とどなり、犯人が怯んだ隙に外へ飛び出し、札所の鐘楼へ飛び上がり鐘を突いて危急を知らせた。二十三番のお坊さんが真先に救援の手配をしてくれた。サクさんは出血する頭を布で押さえ助けを待った。カツ子さんは『泣くと殺すぞ』と脅かされ必死に声を殺していた。犯人は引き出しの小銭をわしづかみにして逃走し、村人は山狩りまでやって探したが、現在までその行方はわからない」
第二 最長の徒歩往診
昭和17年冬の頃だった。
浦山村茶平地区で中年の男性が割腹して腸が出っぱなしだ、と往診を頼まれた。早速、外科の用意と助手に新井与三郎爺さんを連れて出かけた。
影森村を過ぎ、左折して鍾乳洞付近に来ると迎えの人曰く「此処からは自動車も自転車も通れませんので歩いて下さい」という。浦山村は武甲山の南東面、秩父市の反対側の山斜面に広がる山村地区なので、やむを得ない。3時間近く行軍してやっと患家に到着した。創は見事な切れ味で腸は大部分外出中であるが、苦しさも痛みも余り感じていないようだ。創処理、縫合を済ませたら暮れるに早い山の村には夕闇が迫っていた。
翌日、患者搬入を心待ちにしていたが、来院なく更に1日経った3日目に、患者死亡の通知を受け、しかも、もう一度往診して最初の状況と変わりないか検診せよ、と警察よりの要望である。止むなし。警察官も、支那事変より帰ったばかりの中尉殿部長が同行し検死に立ち会った。1日置いたとは言え、30キロ2回の徒歩往診は疲れた。
第三 トロッコ往診
昭和30年代だったと思う。
大滝村中津地区に営林署の現地事務拠点があり、此処までは小トラックが運行できたが、伐採した木材を運搬するためにトロッコが敷かれ、労務者及び家族のために4キロと8キロ先に飯場ができていた。肺炎らしい重症患者がいるので、と営林署を通じ往診を頼まれた。
中津の一般道終点からは、木材ばかりでなく飯場の住人達も、トロッコが只一つの生命線であり静動脈道だったのである。
山紫水明、満点紅葉の美観も内側に侵って見るべきものではない。遠く眺めてこそ神髄が判るのであって、霞の膜と同じであろう。怖さが先立って景色の観賞どころではない。よくも此のような所に軌道を敷設したもんだ、谷を渡り崖をくぐり、脱線したら一巻の終わりである。帰りは歩こうかと考えてみたが「今迄事故を起こしたことはありません」と自信たっぷりの言葉に安心して、遊園地の子供列車に乗ったつもりで帰途についたのであった。 |