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秩父病院物語

花輪吉夫 (秩父病院前院長)
1937年第三代院長に就任。戦前・戦後を通じ、医師・院長として地域医療の発展に尽くす。69年医療法人花仁会設立に伴い理事長に就任。79年医療功労賞受賞。2003年3月死去。

「往診三題」

第一 護衛つき往診

  秩父に赴任して間もない、昭和12年の冬の頃だった。
  札所二十三番音楽寺の前に茶店があり、此処に強盗が入って重態な負傷者が発生した。警防団数人が迎えに来られ、私の前後を護衛してくれる。「今山狩りをしているが未だ捕まらず、何時、何処に飛び出してくるか判らないから気をつけて下さい」と言う。
  音楽寺は荒川を挟んで真西の方向に在り、直線距離にすれば1キロ位か、現代ならば救急車も数分程度で到達できるのであるが、その当時は下流遠く秩父橋を渡り、1時間近くかかったことと思う。勿論自動車の通れる道はない。
  傷者は、茶店の主人で50歳位の男性、左眼は挫滅され前頭部複雑骨折だったが、全身状態は比較的元気であった。応急手当をし、警護団の護衛の下に帰院した。
  珍しい外傷であり、予後も聞きたかったので早速、専門の平沢教授に電話した。「予後は良の見込」「眼球は早く摘出すること」の指示を得た。
  事件当夜は患者さん夫妻と嫁サクさん、孫カツ子さんの4人が就寝していたのであるが、サクさん(現82歳)、カツ子さん(現60歳)のお二人から詳しい状況をうかがうことができた。
「雨戸をはずして侵入した犯人は、金槌を振りかざし主人の顔や頭を滅多打ちにし『金を出せ』と脅していた。側にいた気丈な奥さんが大声で一喝。『うちは息子が出征中で経済戦争中だ』とどなり、犯人が怯んだ隙に外へ飛び出し、札所の鐘楼へ飛び上がり鐘を突いて危急を知らせた。二十三番のお坊さんが真先に救援の手配をしてくれた。サクさんは出血する頭を布で押さえ助けを待った。カツ子さんは『泣くと殺すぞ』と脅かされ必死に声を殺していた。犯人は引き出しの小銭をわしづかみにして逃走し、村人は山狩りまでやって探したが、現在までその行方はわからない」

第二 最長の徒歩往診

 昭和17年冬の頃だった。
  浦山村茶平地区で中年の男性が割腹して腸が出っぱなしだ、と往診を頼まれた。早速、外科の用意と助手に新井与三郎爺さんを連れて出かけた。
  影森村を過ぎ、左折して鍾乳洞付近に来ると迎えの人曰く「此処からは自動車も自転車も通れませんので歩いて下さい」という。浦山村は武甲山の南東面、秩父市の反対側の山斜面に広がる山村地区なので、やむを得ない。3時間近く行軍してやっと患家に到着した。創は見事な切れ味で腸は大部分外出中であるが、苦しさも痛みも余り感じていないようだ。創処理、縫合を済ませたら暮れるに早い山の村には夕闇が迫っていた。
  翌日、患者搬入を心待ちにしていたが、来院なく更に1日経った3日目に、患者死亡の通知を受け、しかも、もう一度往診して最初の状況と変わりないか検診せよ、と警察よりの要望である。止むなし。警察官も、支那事変より帰ったばかりの中尉殿部長が同行し検死に立ち会った。1日置いたとは言え、30キロ2回の徒歩往診は疲れた。

第三 トロッコ往診

 昭和30年代だったと思う。  大滝村中津地区に営林署の現地事務拠点があり、此処までは小トラックが運行できたが、伐採した木材を運搬するためにトロッコが敷かれ、労務者及び家族のために4キロと8キロ先に飯場ができていた。肺炎らしい重症患者がいるので、と営林署を通じ往診を頼まれた。  中津の一般道終点からは、木材ばかりでなく飯場の住人達も、トロッコが只一つの生命線であり静動脈道だったのである。  山紫水明、満点紅葉の美観も内側に侵って見るべきものではない。遠く眺めてこそ神髄が判るのであって、霞の膜と同じであろう。怖さが先立って景色の観賞どころではない。よくも此のような所に軌道を敷設したもんだ、谷を渡り崖をくぐり、脱線したら一巻の終わりである。帰りは歩こうかと考えてみたが「今迄事故を起こしたことはありません」と自信たっぷりの言葉に安心して、遊園地の子供列車に乗ったつもりで帰途についたのであった。


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「忘れられない手術三題」

第一 団子坂異変

  秩父夜祭りの山車運行の、クライマックスは団子坂の引上げである。
  私が秩父に来て間もない、昭和12年の冬のことであった。
  夕刻の外来患者も一応終了し、そろそろ引きあげようとしていた時に、往診の依頼が入ってきた。小学生らしい娘が困りきった顔つきをして、「妹が幾日も高熱が続いて、うなっている、家は秩父公園の入り口です、団子坂の脇です」と。
  約500メートル、少女の先導で患家に到着、なるほど、高熱で大儀らしい。肺炎一歩手前の状況と診た。
  炬燵は切ってあったが、土間に連続している部屋は、到底病人には最悪である。
  バグノン(キニーネ剤)を注射する。バグノンは筋注なので、いつもは長針を使用するのであるが、注射箱の中に無かったので止むなく短針を用い、深く押して臀筋中に刺した。抜いたら根元から完全に折れてしまった。
  事態は一転、伏針抜去術に変わってしまった。
  患者の両親は仕事中なのか、不在なのか、隣人が勝手口から手助けに何人か来てくれた。病院に連絡を頼む。新井事務長が用意を整えて飛んで来た。
  明らかに見えていた刺口も、寒いので布団を掛けたり、自動的に動いたりして、攝子や鉗子だけでは簡単には取れない。止むなく開創し指頭で探索して、やっと抜去できたが、此の間に外野のざわめきは、怒鳴りたくなるようなことばかり。正に反省と修業の数時間であった。
  団子坂の名前は真先に覚えてしまった。

第二 頭から冷水をぶっかけられたような

  終戦の翌年、昭和21年のことである。
  相川先生はフィリピンから、私はビルマから帰還したばかりの頃であった。相川先生の長男、直樹君のヘルニアの手術をすることになった。
  直樹君は私の家内の妹の子供なので、血縁はないが、甥に当たるわけである。生後、気がついたヘルニアが歩行するようになって増大し、嵌頓騒ぎを頻繁に起こして来たのであった。
  軍医大尉の私が執刀し、軍医中佐の相川先生が助手を務める。戦時中だったら誠に豪華な布陣である。
  麻酔をどうする。
1.腰麻
  年長、成人ならアッペも、ヘルニアも当然、腰麻であるが、今回は初めから除外した。年少というばかりでなく、私の医局時代2例の事故を現認しておるので、当時の腰麻薬には多大の不信感を持っていた。
2.全麻
  当時の全麻はエーテルドロップ法で誠に原始的なものであったが、乳幼児にも安全に施行されていた。但し、事故の報告も無い訳ではなかった。
3.局麻
  100%安全である。但し患者が協力してくれなければ駄目である。直樹君は偉かった。僅か3歳そこそこというのに、聞き分けが宜しい。大人と話ができるのである。
「初めチクンとするが、後は痛くなくなるから我慢するんだよ」「ウン、大丈夫だよ」
  局麻にきまった。
  麻酔完了。
  正にメスを入れんとした瞬間である。直樹君の目がつり上がり、全身痙攣を起こす。「ヒキツケ」の症状である。ノボカイン中毒だ。驚いたのなんの、頭のてっぺんから冷水をぶっかけられて、打ちのめされた。
  何秒か経った、患者も術者も落ちついた。手術中止か、続行か、相川先生と目と目で合図、直樹君と話をしながら、手術完了。
  直樹君は慶應の医学部に進み、超一番の成績を以て卒業、現在は慶應病院の救急部教授となり、世界の相川として活躍中である。
  秩父病院の顧問としても、末永くご教授戴くことに間違いはない。

第三 始末書覚悟の手術

  昭和22年頃だった。
  300メートル位離れた知人の患家から、至急往診を告げられた。子供が呼吸困難で重態だという。
  半分想像した通り、ジフテリアに依る気道閉塞だった。
  気管切開しかない。すぐ手術の用意をする。ジフテリアは法定伝染病である。法定伝染病は、疑いを持った時点で届出、必ず隔離することをきつく義務づけられている。
  だが、今はそんな余裕はない。丁度患家の土間から部屋への上り口が高さの具合が宜しい。首を土間に引張り出し、「エイ」と一発、ピューッと膿汁が吹き出した。呼吸が楽になった。カニューレを差し込む。
  一刻を争う病状だったことには違いないが、規則違反もいいところ、当時の監督官庁は警察であるので、きついお叱りを覚悟していたが、何のお咎めもなかったことは、結果オーライのためだったのか……



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